Comments by Dr Marks

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No. 20.

コメントにならないコメント−35 (ヴァメーシュの『イエスの復活』「イエス自身の復活に関する福音書の説明」続編)

vs.

"Tom" N.T. Wright and David Friedrich Strauss


今日は久しぶりに暑い日だったが、確実に秋の迫りは感じられた。昼頃にコスコ(Costco)に買い物に行ったときも、午後にエンスィノ(Encino)のガートルードばあさんのところに行ったときも、目の前を日本のオニヤンマのようなトンボが横切った。速すぎて、とても写真には撮れない。

さて、本題に入ろう。まずはマタイ伝だが、今までのヨハネ伝やルカ伝から比べれば、復活の場面ははるかに短い。しかし、ヴァメーシュは7つのステージに分けている。なお、復活の場面ではなく、全体で一番長い福音書というのはルカ伝だ。

1) 二人の女、すなわちマグダラのマリアともう一人のマリアが日曜日の明け方に墓に向かう。二人が死者のための香料を持参したとは書いていない。

(ここでヴァメーシュは、もう一人のマリアをルカ伝24章にもあるヤコブの母マリアとしているが、早計過ぎる。新約学者ではないところが、こんなところに出てくるな。マリアなんていくらでもいるんだ。また、香料も持たずにただ信心から墓に向かったとも書いているが、どうも解せん。耄碌かな。)

2) すると地震が起こり、天から白く輝く衣を着た天使が舞い降りて、墓の入り口をふさいでいた石を転がしてその石の上に座った。祭司長たちが遣わした番兵たちは恐ろしさから「震えて死人のように」なった

(また、Dr. Marksの余計な解説だが、もしこの入り口の石が、貴人の墓にあるような溝を転がす形式であれば、石は転がすと溝を転がって袋に入るので、転がした石の上に座ることはできない。単にコルクの栓をするように墓の入り口に立てかけるような形式なら座ることができる。)

3) 天使は女たちに、「イエスが復活したので墓は空である。この知らせを弟子たちに伝えなさい」と言い、また、「ガリラヤに戻りなさい。そこで復活のイエスが弟子たちに会う」とも命令した。

4) 喜ぶと同時に恐ろしかったので、女たちは言われたことを実行するために弟子たちのところにすぐさま向かったが、途中で復活のイエス自身に会う。イエスは天使と同じ指示を彼女らに出した。(女たちは復活のエスの足にすがっているから、肉体はあるんだが、このことをヴァメーシュは省略している。)

5) 気を取り戻した番兵たちは、事の次第を祭司長たちに報告するが、祭司長たちは番兵に金を渡して口止めし、弟子たちが墓から死体を盗み出したと言えと命令した。この祭司長たちの陰謀はマタイが福音書を書く頃でも語り継がれていた。

6) イエスはその後エルサレムには現れなかった。ガリラヤの山(湖ではない)で11人の弟子たちが会っただけである。しかし、マタイは不思議なことを言っている。復活のイエスの姿を見て(イエスだと)信じる者もいたが、疑う者もいたのだよ。(ここのテキストの解釈で多少の論争はあるが、「疑う者もいた」と読むのが圧倒的に多数だな。フラーのドナルド・ハーグナー [Donald A. Hagner] 先生の論考 [1995] は秀逸。)

7) 「すべての民を私の弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と、イエスは弟子たちに命令する。いわゆる大宣教命令と言われるやつだな。日蓮折伏みたいなものだ。(←こら罰当たり!)

以上が、マタイ伝の概略であり、最後に(成立は最初の福音書ではあるが)マルコ伝が紹介される。ヴァメーシュは、まず短い終結部(16章1−8節)を3つの場面に分ける。この短い終結部に該当する箇所で、現存する最も古いものは4世紀初頭と見られる写本であるから、読者は以外に新しいなと思うかもしれない。

そうなんだ。他の箇所の断片なら、2世紀初頭のものもあるが、この終結部は、古いものでもその200年も後のものしかないんだな。しかし、現存するこの写本はなかなかしっかりしていて、立派なものである。一つはシナイ写本といわれ、シナイ半島にある聖カテリーナ修道院で見つかったもの、もう一つありヴァチカン教皇庁にあるのがヴァチカン写本だ。これらはギリシア語原文であるが、他に4−5世紀のものと思われるシリア語訳も短い終結部で終わっている。

1) マグダラのマリアヤコブの母マリア、それにサロメという三人の女が日曜日の朝早く、弔い用の香料を持って墓に向かっていた。彼女らの心配事の一つは、どうやって墓の入り口にある石を取り除けるかであった。

2) そこで彼女らは、石がすでに取り除けられているのを見て墓を覗くと、中には若い男が座り白い衣を着ているのが見えた。彼女らはイエスの死体がそこにないのを悟った。すると男は、イエスは復活したのでガリラヤで会うと弟子たちに伝えなさい、と女たちに命令した。

3) 女たちは驚き怖くなってその場を立ち去り、男が命令したことは何一つ誰にも言わなかった

(「何一つ誰にも言わない」のに知っているということは、不思議なことだが、それはその当座ということで、後で女たちが伝えたと解釈されている。)

ここで短い終結部は終わるのだが、その後の長い終結部は、各自がお手許の聖書をご覧になったほうがいいだろう。今まで見たヨハネ伝やルカ伝から後に拝借して書き足したことは明らかである。ただ、この付け足しの中には、あの悪名高き(←こういうと怒るキリスト教徒のグループがあるんだよな)「手で蛇をつかみ、毒を飲んでも決して害を受けない」という記述があるんだ。まねするなよ、というか、実際にまねするグループがあるんだよ。困ったもんだ。

ほんで、長い終結部の最後は、イエスが天に上げられるんだが、ヴァメーシュは付録として、いろいろな昇天場面についてまとめている。しかし、これは後日も触れることになると思うので、今日は紹介を省略する。

このところで、ヴァメーシュは、とうとうトムじいさん(N.T. Wright)の名を出した。私が前に予想したとおりだ。そして、このライト先生は、イエスの復活について800ページ以上の厚い本を書いて、これは「歴史的出来事だ(a historical event)」と結論づけたと紹介している。

いや、ヴァメーシュじさんがトムじいさん(ライト先生)をからかってんじゃないとは思うが、シュトラウス(David Friedrich Strauss, 1808-1874)の次の言葉を対比させて、うん、やっぱりからかったのかな。まあ、シュトラウスは複雑な言い方だが、トムじいさんの反対だわな。

なお。次の引用はシュトラウスの有名な『イエスの生涯』からのものではない。確認した。ヴァメーシュじいさんは不親切で、どこから持ってきたか書いていないが『古い信仰と新しい信仰(Alte und der neue Glaube)』のものだ。探したよ。しかも、ここの英文は Mathilde Blind の大本の訳ではないと思う。多分(確認しなければならないが)、G.A. Wells の手が入っているだろう。

ともかく、意味は、「今まで、比較的下手な方法でも、信じがたい申し立てなのに証明された、などということはめったになかったように、間違った証明の申し立てなど、もともと信憑性が薄かったのである」ということをシュトラウスが言っている。ヴァメーシュはそこだけ引用しているが、実は直前に、「歴史的に見た場合、イエスの復活には、ほんの微かな史実的基盤もありはしない」と明言しているのだ。

なお、Alte und der neue Glaube の日本語訳はないようだ。英訳はある。次回は、ヴァメーシュじいさんが、今までの福音書の中味を吟味する話になる。(余計なおまけ:トムじいさんの写真は10年くらい前のもの。シュトラウスと対抗させるために若いのにした。現在の彼の写真は、私の本家にある。)