Comments by Dr Marks

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“aikagami” または「合鏡」君のこと

「君」と書いたからといって、“aikagami” または「合鏡」の名でネットに住むこの方が男だとは限らない。私の本家の常連「あがるま」君だって私が勝手に男だと信じているだけである。匿名のネットの世界では男か女か判りはしないのだが、本人が私的メールをくださったり、ブログの中で男か女か告白されたケースでは(嘘の告白ではないとして)、常に私の勘は当たっており違ったためしがない。合鏡君は男だろう。それと、合鏡君はひょっとしたらと思っていたら、やはりカトリック教徒であることも今日わかった。これは多分そうだろうということで自信はなかったが、なんとなく的中した感じ。

さて、この合鏡君は、例のタツル君のブログに私がコメントしていた9か月の間に、何度か私のコメントに対しコメントして、一緒になってタツル君をからかったり、時には私をからかってくれた面白い人だ。(誰か2年間タツル君に私がコメントしていたとネットで噂話していたが、9か月だよ。そもそも私が日本のブログに行き始めたのが去年の夏なんだから。)合鏡君は、私同様に頭のネジが足りないところがあって、どうもあぶない人だが、詩人でもあるらしい。(私は詩心まるでなし。)彼は、週1回更新する詩のブログを数年続けている。

しかし、彼のブログはコメントを受け付けないことを今日知った。ふと、近頃は気でもふれたかとも思えるタツル君の意味のない長い長いブログに久しぶりに aikagami という名を見つけたので読んでみた。面白いので以下に再録する。実はこのコメントに誰かさんがヒステリックに噛み付いたので、aikagami 君はご丁寧にこのヒステリックな姉さんも(←例のごとく、私の判断では女性、それに自分でデボラって言ってるし)切り捨てる。以上、3つのコメントを以下に再録するわけは、合鏡君にコメントしたかったのだができなかったからである。(タツル君のところでコメントできるのだが、あそこではしないことに決めたから。)じゃ、お前のコメントも書けと言われるだろうが、それはどうでもよくなった。以下の再録だけが目的だ。

それから予告だが、次回はある日本の若い学者グループの話。予告が予定通りになるかどうかは実はわからない。あることの裏を取るために米国内のある教授に問い合わせ中で、その返事次第だ。ある‥ある‥ある‥で何のことかわからないだろうが、実現の際はお楽しみに。(本家に出すような学者グループではないから、ここに出す、いや、引きずり出す。)

>そういえば、上野千鶴子の『おひとりさまの老後』という本には、「家族の不在(悼むべき祖先の不在、来るべき子孫の不在)を少しも痛みとして感知しない人間」になるための方法がことこまかに書かれていた。
フェミニズムが(全てのとは言いませんが)、「脱性化」というより「男性化」を目指していた政治運動だったからのような気がします。端的に言って、自らの「女性性」の否定ですね。
「女性」とは、交換可能な時間蓄積であるところの人間生物的「資本」ですから、その交換ゲームに与らない道を積極的に選好して単独者たらんとするということは、神のような不老不死の身でもなければ、これはもうその志向の果てにあるものは、悪魔的な「虚無」としか言いようがありません。
それゆえ、もともと生物学的に女性から派生した「はぐれもの」である男は、結婚して女を交換する親族的ネットワークに自らを再帰的に繋ぐか、あるいはカトリックの司祭のように、家族愛的共同体に奉仕して、迂回的に種の存続に与るわけです。
『牝鶏晨す(ひんけいあしたす) 』と言いましょうか、雄鶏に代わって雌鳥が時を告げる(鬨をあげる=人々を鼓舞し号令する)ことは、その家や国が滅びる前兆であると、古の賢人も申しておられます。まあ、神の造形的にも女と子供の男は「ひっこんで」いるわけです。それを象徴させて、カトリック教会やイスラム社会では女は「ベールを被って」いますけど...
投稿者: aikagami | 2007年10月31日 16:25

>「女性」とは、交換可能な時間蓄積であるところの人間生物的「資本」ですから、
はあ?誰が決めたんですか?
>迂回的に種の存続に与るわけです。
カトリック、ご存知なんですか??
>牝鶏晨す
あんまりにも あんまり品格なさすぎ・・・
最近の コメント欄は読むに耐えません。
内田先生が 黙認しておられるなら悲しいです!!
投稿者: デボラ | 2007年10月31日 21:22

内田先生はどんなコメントでも黙認しておられると思います。それは、どんな言論も平行して曝すことで、自ずと百年論定まることを実践しておられるのだと私的には思っていますが、私のコメントがデボラさんの心証を害したのであれば、大変申し訳ないことです。
「女性が交換可能な時間蓄積であるところの人間生物的資本」という私の妄説は、「産む機械」という意味ではありません。女性が生家で獲得した躾や振る舞いなどのノウハウをもって、新しい婚家へ参内する社会学的なことを言ったつもりです。因に女性の生殖細胞のDNAの組み合わせは、生まれた時にすでに決定しており、あとはその500万の卵細胞の中から一月に一つずつ、一生のうちではほば500ほどを選んでゆくわけです。その点男性は、日々スロットル・マシンをギャンブルするかのように、そのDNAの組み合わせを試しておられます。その意味でも男性は生家から自立しうる個人ですが、女性は生家から婚家への贈り物と言えます(それゆえ、あえてそれを拒否することで男性化なさろうとしておられるのでしょうか)。
私は一応カトリック教徒ですが、不良信徒なので、そのようにつっこまれるとあまり自信がありません。カトリック教会は「大きな船」ですので、私的には甘え切っておりますが、過誤の責めはひとえに私個人にあります。
私も女性の社会進出や女性解放に反対ではありませんし、女性の発言を封じようとは思っておりません。それは当たり前のことです。しかしながら、「女性性」とは一歩「引いたところ」にしか成立しない以上、得手不得手というか、「語り口」や「語法」に差異があってもよいのではと思うのです。個人の「自由」が何よりも大切だという、近代的普遍性もわかりますが、バイオテクノロジー的に人工的な単為生殖が未だ不可能な現在、女性は言論的にも精神的にも生物学的偏向性(精神性を発出させているプラットホームの限定性)を、免れ得ないのではと思っております。
百歩譲って、そのような未来社会を先取りし、そのような時代を到来させる動勢と受け取れなくもありませんが、もしそういった時代が来たとして、フェミニストの方々はそれを享受出来るように、その社会から招待され、その恩恵に与ることができるのでしょうか。持続可能な未来社会を築く非常に困難な勝利は、真に挑戦的で自らの危険を顧みない「男性性」と、それを一歩引いたところで支え担保する「女性性」の組み合わせの内にしかないと、私は思うのですがどうでしょうか?
投稿者: aikagami | 2007年11月01日 00:18