Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

横書き小説と小説の未来

   んっ、この論旨とは関係がないが、やはり 「キチガイに匿名」 も問題だった(コメント欄参照)

私が勝手に求道士様と呼んでいる方のブログに出た「猫猫論(もてない男篇)」をご紹介します。 アンダラインをクリックオンすると出ます。(以下の私の記事とは関係がありません。)
束の間の(あと数日しか暇な日はない)ブログ遊び。表題だけ付けてみたが、書くべき中身なし。だいたい小説など論じられる能力は持ち合わせない。だが、思いがけず横書きの小説を読んでいると、ふと気になって「横書きの小説」と検索してみたら、どうやら携帯小説なるものが横書きの小説であることがわかった。ブログ小説も同じようなものだ。流石に、印刷形態の小説はほとんどないようだ。少なくとも、大手の文芸出版社はしない。

読んでいるのは、お察しのとおり、猫猫先生の連載だが、小説を論じられる能力があったとしても、今の段階で何も言えないだろう。漱石は、小説は何も頭から順に読むものではない、と言っているが、それは自由に読む立場からのもので、責任を伴う書評は全体を読まずして不可能であろう。ところで今、私は「責任を伴う書評」と言ったが、いろいろな意味で、すなわち、どのようなXX評論家のXX評論でもその本の売れ行きや評価に社会的に関わってくるので、責任を伴わない書評などするべきではない。

だが、責任とはいったい何かと言われたら、私は書評を受けた者が反駁(rebuttal、反論)の機会を与えられたり、書評した者が後で訂正あるいは取り下げ(retraction、前言撤回)できるシステムに、評者ができる限り協力することだと考えている。悪いものは悪く書評され、良いものは良く書評されるのだから、悪く貶そうが良く褒め上げようがそのこと自体は責任とは関係がない。何にでも思い違いや認識不足は伴うのだから、評者は自ら自らの評を訂正したり、批評された作者・著者からの言い分を聞くべきである。学問の世界で、学会を仲介して行うものは、お互いのルールがあるので問題はないが、小説評論などでは、私のいう「責任」機能が働いていないのであろう。多分、日本だけの問題ではない。

ネット時代に入り、書評は万人に機会を与えられたものとなった。かつては、学会同様に、それなりの仁義を弁えた者が書評誌に載せたものだが、今ではアマゾンでもどこでもできる。しかし、日本のアマゾン・ジャパンしか利用しない人は知らないだろうが、Amazon.com では、匿名で書かれた批評に反論したい場合に、実名あるいは作者・著者としての筆名で、その批評に対するコメントとして反駁の機会が与えられている。嘘だと思ったら覗いてみるがいい。日本の場合は、その批評の後に自分で反論の「批評」をすればいいと言った人がいたが、自分の本を自分が批評する形になるのでおかしいことになるだろう。

前のブログで、反駁の機会は匿名問題以前のことだと言ったことが何なのか、今おわかりだろうか。Amazon.com だけが匿名の評者の本名を知っているが、公開する必要もないのである。匿名の評者に対して匿名を維持したまま作家・著者が反駁できるのであるから、必要があれば、匿名の評者は再び匿名のまま作家・著者と議論すればいい。そのうち、第三者の飛び入りも現れるだろう。

さて、ここまで書いて、横書き小説についても、小説の未来についても、何も書いていないことに気がついた。初めに書いたように、これらについては何も書く内容がないからではあるが、書き出してから、再びネットでの議論に思いを馳せた結果が上記のようなこととなったからだ。

それはともかく、日本語の横書き小説というものも、読んでみると悪くない。そういえば、近頃の日本の国語の教科書も、一部は横書きであることは知っていた。常日頃、横書きを読んでいるからということではないが、違和感はまったくない。小谷野先生の連載小説6回までを読むと、漢数字を使って将来の縦書き印刷本に備えている節はあるが、どこぞの文芸出版社よ、もうそろそろ横書きの小説を出版してみてはどうかね。どうして、出版社や新聞社はこうも保守的なのかね。そのうち横書きの携帯小説とネット小説全盛になって、「縦書きなんか読めネー」なんていう若者が出てくれば、旧態依然のあなたがたは縦書き小説とともに消え去るのみ、ナンチャッテ!