Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

Dr. Marks のまだ題のない小説(その3)

DrMarks2008-01-05


ふう。忙しいのによく書くよ。とりあえず、また1回分やっつけた。後は明日の晩(西海岸時間)だが、どうなることやら。

今回は、随分と歴史上の人物や事件・事情が登場したが、考えてみれば、大説や学術論文でもない、たかが「小」説なのになんで細部を歴史的事実どおりに書こうとするのか。自分がやっていて、単なる pedantries すなわち衒学趣味かといぶかしんだが、背景をなるべく現実に近づけるのは、真実らしさをてらうというよりは、むしろ現実から遊離した馬鹿げた話を毛嫌いする私の性向からくることがわかった。

つまり、匿名の小説でなく、実名の小説だ。ふやけた夢物語で衆愚をアヘン吸引のような気分にさせるのではなく、日々の飯に心を配り、泣いたり笑ったりする人生に密着した小説だ。やっと、私が、あの村上なんとかやらのアホのような小説を毛嫌いしているわけがわかったような気がする。もっとも、日本にいたときの10数年前までのものしか読んではいないが。(こんなこと書くとまた怒られるな。ほら、Warning: May Contain Offensive Feline Material って書いてあるでしょう。)


 なるほど、長かったモンタナを過ぎ、しばしアイダホをかすめて、いよいよ今日の夕刻にはワシントン州のスポケーンに辿り着く。その後は、夜を徹してコロンビア川に沿って走り、明日の午後にはシアトルにようやく到着する。加賀丸の出港は6月5日であるから、アンの申すとおり、我らが結婚記念日は太平洋上の船中となる予定だ。アンは、我一等の船客なり、結婚記念日の祝いをせん、と船長に申し出て、何らかの便宜を図らせる心積もりのようであるが、このようなこととなるといささかの遠慮もなく、遠慮の権化である日本男子としてはしばしば狼狽するばかりである。果たして事業家の血脈がこの屈託なき女にも受け継がれているものかと感得せざるをえない。
 シアトルは、近時、栄えている。乗船までの逗留の間、シアトルの街を見物して、記念に何か買い求めるつもりでいた。妻はもちろんのこと、私もシアトルは初めてだ。10年前に来米したときは、サンフランシスコに降り立った。だから、帰国に際してもサンフランシスコのつもりでいたが、二か月前に彼の地は大地震となり市街地は焼け野原同然であると報じられた。早速、サンフランシスコの教会でなにくれと世話をしてくださった恩人の鈴木氏に安否を尋ねたものの届かず、ワシントンを出立する前日になって、手紙が転送されたことと、家は崩壊するも家族全員無事であることとを記した返書を受け取った。返書の差出地はロスアンジェルスで、当地の『羅府新報』なる新興の邦字紙に参画しているとの由。確か、鈴木氏は安孫子久太郎の許で『日米新聞』の記者であった。鈴木氏によれば、どうやらサンフランシスコの多くの日本人は、ロスアンジェルスの日本人街に向かったらしく、支那人も白人も同様に南下して、ロスアンジェルスは益々繁盛とのことでもあった。
 ともかく、あの地震では帰国の予定が立たぬと私はみたのだが、アンが近年できたシアトル横浜航路を見いだし、すぐさま手筈を整えたのには驚いた。アンはただの箱入り娘ではなかった。深窓の令嬢なら、クラーク(clerk)やセクレタリー(secretary)などの下働きはせぬものを、看護婦に混じって、アッベ博士の弟君であられる医学博士ボブ・アッベ氏のオフィスで甲斐甲斐しく働くエイプロン(apron)姿を見たのが、そもそもはアンとの馴れ初めであった。
 私は、アンとともにずっとアメリカに留まるつもりであった。しかし、米国永住は渡米のときから密かに決心していたもので、アンとの結婚以前のものでもある。自由のない日本の学界に住むつもりは毛頭なかったから、ニューヨークの新聞に日本の教育事情の批判を書いたが、幸い英文のため、日本人の間での騒ぎとはならなかった。実際、青山で学んだだけで帝国大学を出ていない私が活躍する場は限られている。
 加えて、私が渡米する前に内村鑑三の不敬事件が伝わるや否や、私の長兄などは役場の小役人にすぎぬくせに、耶蘇の学校(青山)で学んでも何の役にも立たぬ、我が身の職責にも累及ばん、とわめいていたが、耶蘇の国から苦労するために帰るよりは、高峰譲吉博士のごとく米国永住が得策であろうと考えた。


 あの男がアッベ博士の許に来るまではそう思っていた。あの男が陸軍大学校での教鞭を請わなければアメリカに留まっていたかった。そして、あの男の話を聞き、好奇心の強いアンがその気になったのも帰国を決意するきっかけとなってしまった。