Comments by Dr Marks

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Dr. Marks のまだ題のない小説(その4)

ふん、会話のない小説は読みにくいってか。そうかもしれん。日本にいた頃の若者も、赤川次郎みたいなカスカスの小説が、「読みやすいわー」とか言っていたものだ。(あれっ、だいたいあれは小説じゃないか。)しかし、古来、物語とはそういうものではない。会話だらけのものは芝居じゃよ。

とはいうものの、会話がなければ楽しくないのも確か。日米交流史を読んでみてもつまらないからね。よっしゃ、会話、やったる。ところで、読者の皆様、そして編集者の君、断っておきますが「支那人」は「中国人」なんて直さないからね。


「車中は暖かくていいわ、センタ、ほら、指がこんなに冷たくなって」
「うむ、温めてあげるよ。僕はポケットに手を入れていたからね」
「わたし、温まるまでしばらくマンドリンは弾けないから、またお船の話を聞かして」
「サンフランシスコに来たときの話かい。それともアッベ博士とスイスに外遊したときの話かな」
「もちろんアメリカに来たときの話よ。そうそう、これからの私たちの船にもそういう船室があるのかどうか聞いてみたいわ」


 呆れた女だ。誰がもう思い出したくもないような話をするものか。しかし、アンは純粋な好奇心からであり、あの悲惨な船旅の中にあっても、我が機転を賛美し、我が困難に際しての方策を愛でるために聞いているのである。この女は、夫である私のすることは、成功のみならず失策失敗の類でも、感心して聞くし、皆に吹聴する。したがって、思わぬことを思わぬ場で暴露されて、赤面することもしばしばだった。どうしてかと聞けば、妻たるもの、夫のことはすべて信頼し、すべて誇りとせん、と言うではないか。実は、かくまで夫唱婦随、夫を尊敬してやまない妻など、今どきの日本にもいないと思ったほどである。


「でも、ペキン号はアメリカの汽船でしょう」
「そうさ」
「奴隷を使うようなアメリカ人ならありえるけど、今度の加賀丸は日本の汽船だから、そんなことはないわね」
「わからん」
「あらっ、ひょっとしたら、わたしが差別されるかしら」


 船中で差別されることはなかろう。船長の名前はお雇いらしく西洋人の名前であった。船中の社交もあれば、上等船客には英語やフランス語での応対も可能な西洋人を雇っていると聞く。日本の船なのに、船長は日本人ではない。アンは気づいていないが、問題は日本に着いてからのことだ。


「はっきり言っておくが、僕は日本人だからそのような待遇だったのではないよ。一番安い運賃で乗船したら、結果として、そのような待遇だったというわけさ。むしろ、僕はアメリカで何の差別も受けず、むしろ感謝のし通しだった。その点では、サンフランシスコの鈴木氏らのこうむった日本人排斥の被害とは異なっているね」
「でも、ペキン号には西洋人下等(European steerage)と東洋人下等(Asiatic s.)があったことは確かでしょう」
「確かに。しかし、料金も違っていた」
「50ほどのカイコ棚のようなハンモックがぶら下がっていて、僕を含めて十余人が日本人で、あとは皆、支那人だった。言葉がわからないせいもあるだろうが、支那人の会話がうるさくてね」
支那人というのはそんなに無作法なのかしら」
「いや、そんなことはない。サンフランシスコの我孫子氏らによれば、日本人クリスチャンに初めて礼拝の場を提供してくれたのは支那人の教会だったし、船中においても、四書五経の類を携えた者もあり、必ずしも蛮人ばかりではなかった」
「大変だったのが、お食事ね」
「そうだ。しかし、最悪なのは匂いだ。聞けば、東洋人下等はもともと家畜用の船室であるが、不衛生な船客の匂いと重なって耐え難い。下船してから数か月経っても、荷物を開けたり本を開くと匂ってきたものだ。ほら、まだ匂うだろう」
「いいえ、あなたにはわたしの匂いだけが付いています」


 確かに、ひどい食事だった。アンの前では何だが、どうもあの西洋人の食する長細いインディカ米は苦手である。今でこそ何とか食べられるが、長い間、日本の米が恋しくてならなかった。匂いと悲惨な食事では、船酔いするのも当然である。コックが大鉢にその長いパラパラの米を入れて船室に吊るし、もう一つの鉢には醤油とも味噌ともつかぬ異様な汁で煮込んだおかずを吊るす。それを銘々の食器に盛って食べるのだ。


支那人たちは、そうでもないの」
「うん、どうやらコックは支那人支那の食事に近いらしく、彼らはうまそうに食っていたね」
「そこであなた方、日本人は困ってしまった」
「それはそうさ、3週間断食というわけにもいかない」
「イエス様ならなさってよ」
「おいおい、神様と一緒にするな」
「そこで一計を案じたのはあなたなのね」
「うん、僕は初めから英語が話せたし、気の合った2人に声を掛けて、この支那人コックに英語で話しかけ、3人で10円工面して握らせ、上等船客の残り物を都合させたのさ」
「でも、それも長く続かなかったのでしょう」
「そうだね。上等船客も船酔いに慣れてくると食が進むらしく、残り物も途絶えてきた。ホノルルに着く頃にはどうなることかと思った」
「ホノルルには日本人がいるのでしょう」
「そうだ。しかし、上陸許可が出ない。ところが、そのときも僕の英語が役に立った」
「埠頭に立つ人に向かって大声で英語で呼ばわったら、何事かと自分のボートでペキン号に近づいてきてくれたハワイ人があった」
「それで…」
「正直に、お腹が空いてたまらない、日本の物が食べたい、と言ったら、日本人を知っているらしく、出港はいつかと聞いてきた」
「幸い…」
「そう、幸い半日ほどあったので、その親切なハワイ人が握り飯や干したバナナを携えた日本人を連れてきてくれた」
「よかった」
「いや、それどころではないのだ。礼として多少の金を申し出たところ、『自分は広島県から移民して今ようやく暮らせるようになった、これから大変だろうが、ぜひ無事で行きなさい』と励ましてくれ、金など要らぬと言い、涙を流しながら見送ってくれた」
「ずいぶん親切ね」
「そうだ。そのように誠実で親切で成功した日本人だから、例のハワイ人もこの人ならと思って連れてきてくれたのだろうね」


 しかし、人の品格も人格も人種ではない。そのことはアメリカで痛いほど経験することになった。ペキン号でも、ときどき横柄な西洋人乗組員が見回りにきて下卑な声を掛けていくのには閉口した。多分、英語などは解せぬと思っての雑言ではあろうが、わかる者にはわかるのだ。この乗組員どもは、私が初めて西洋人に接した青山では見たことがない輩で、西洋人といえども下等な人間は下等だとそのとき思ったものだ。