Comments by Dr Marks

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Dr. Marks のまだ題のない小説(その5)

All actual historical characters, if you think so, are set in fictitious situations by the author’s imagination. Please do not confuse fictitious characters with real persons.


まず、お詫びを。そうですね、赤川次郎という「実名作家」は団塊の世代で、意外に何事にも頑張らなければならなかった世代でした。だから、近頃の無教養な若い小説家とは別なのでしょう。私は幾つかの作品は読んでいますが小谷野先生推薦(コメント参照)の作品『ヴァージン・ロード』は読んでいません。

今、LAカウンティーの図書館を検索したら、約270冊所蔵しているが8割以上が中国語訳の赤川本!!! 実に、国際的だ。(中国語だけだけどね。)大学にはもちろん日本文学用だから日本語で6冊あった。推薦の本はなかったので後で入手することにした。

読者の方に。これはお詫びではありません。しかし、前回は、「あの男」が出てこなくてすみません。出ると思ったのでしょうが、フェイントをかましてみたのです。今回は出ています。これからも小出しに出てきますが、ストーリーの一つの伏線ですので、小出しにすることはご了承ください。

しかし、まあ、この名前からモデルは誰だとか言われると困るんだな荻上キキじゃないが実名4字のうち2字が伏字だと、逆に2字は確定ということで探しやすい。しかし、私のは4字の人名だが、2字は出鱈目な字を充てた。どこの2字が本当かもわからないので、部外者は探しにくいだろうが、関係者はわかる。多分、子孫ないし類族がいる。その方々に御免。何か悪者のような書き出しでお怒りかもしれないが、かならずしもそういうわけではない。それに、何よりもこれはフィクションであり、実話ではないことを断わりおく。

そんなわけで、岡本捨松理学士(後に理学博士、文化勲章受章者←わわわっ、これじゃばれるー)の子孫の皆様、なにとぞご寛容のほどを。しかも、物語中で卑劣漢としては描きません。むしろ、あまりにも人間的で、私も個人的には好きな人物として描くつもりです。類族の方で、身内でなければわからない、何かこぼれ話がありましたら、右の猫マークをクリックしてください。下のほうにEメールアドレスが出ます。よろしく。

それにしても、編集者諸君、早い者勝ちだって! (トホホ‥‥泣き顔のアバター‥‥。岡本家の方、ナントカイッチャッテ、密かに連絡先書いたでしょう。編集者の君にホントは宛てたのよ。)

 しかしながら、品格、人格といっても何をもってそう言えるのかは難しい。あの男、岡本捨松理学士の場合もそうである。帝大出身のあの男は、単に帝大の権威にすがるような男ではなく、実際に頭が良く学問に熱心なことは間違いない。その点でのアッベ博士の眼力に異議を唱えるつもりはない。


「その親切な移民の方にホノルルで会えるかしら」
「いや、残念ながら、先年亡くなられた。別れ際に住所氏名を急いで伺ったので、毎年賀状を欠かしたことがなかったが、アンに会う前の年に、ご家族から訃報を知らされた」
「そう、それは残念ね」
「うん、しかし、アイオワ大のウェルド教授がが亡くなったときが一番辛かった。ちょうどウスター市のクラーク大学に世話になってコロンビア大に出す博士論文の準備をしていたときだったが、どういうわけか自分の健康もすぐれなくてね」
「お父さんやお母さんがお亡くなりのときは?」
「覚えていない。それは覚えていないのだよ。僕が1歳のときに父を亡くし、翌年に母を続けて亡くしたのだからね」
「…可愛そうに」とささやいて目に涙を溜めたアンの胸の中に、私の頭は抱えられていた。柔らかい胸に何か懐かしい思いがした。


 父は下級の米沢藩士であり、兄の母、すなわち父の先妻も米沢藩士の娘であったが、私の母は会津の医師の娘であった。父は戊辰の役に北越小栗山の合戦で手傷を負ったうえ維新後は家禄がなくなり困窮したところ、上杉伯爵に従って上京し軽微な仕事を仰せつかって安政3年生まれの兄を男手で育てていたらしい。もともと遠縁にあたる私の母が後妻に入り私が生まれたが、兄と私は22も歳が離れていた。
 普通は外様と親藩は水と油だから、稀な例ではあるが、もともと外様の米沢藩親藩会津藩は縁が深い。上杉家の寛文4年の危機に際して上杉家を助けたのは会津松平家保科正之公であるし、減封により上杉家が抱え切れなくなった藩士を引き受けたのも保科公である。また、米沢藩士の一部は上杉家の禄を返上して、会津松平の安堵を得て会津に留まった者もある。ほとんどはそのまま苗字帯刀を許された郷士となり、多くは地主として、あるいは母の実家のように医家などの特殊な生業で会津に尽くすこととなった。したがって、奥羽越列藩同盟の中心として会津藩とその属藩である庄内藩を弁護したのは米沢藩だった。そのような事情であるから、会津藩士と米沢藩士に縁戚関係が多いのも当然であった。
 私の母は、医師である生家の手伝いをしていたので、父に嫁ぐとすぐに美土代町からさほどもない御茶ノ水にある順天堂医院で働き、兄を今は一ツ橋にあるがその頃は銀座にあった商業学校に通わせた。元々、赤の他人ではないといっても、兄は私の母には恩義を感じていたらしく、乳飲み子に近かった私を、24歳の若さで引き取って同い年の自分の子供、すなわち私の甥と一緒に育ててくれた。
 兄が私を引き取ってから数年後の明治15年に、会津において弾正ヶ原事件が起きた。三方道路建設にからんだ県令三島通庸の圧制に対抗するため、自由民権運動の暴徒が弾正ヶ原に終結し、警察署に奇襲を敢行した。母の父、すなわち我が祖父である外科医の鈴木数馬は、もとより暴徒に加担するような乱暴な男ではなかったが、自由民権に賛同し、板垣退助との親交もあったため、暴徒の首魁の一人とみなされて禁固4年を言い渡されることとなった。
 板垣翁がまだ若いときであるから、郡山から車馬なしの徒歩で母の実家を訪問したことがあるそうだ。祖父は、中央での働きかけがあり、実際は数か月の収監で恩赦により釈放されたが、その頃、東京府の本庁に勤めしところを、府下の東京市勤務に転勤を言い渡された兄は、密かに祖父のせいであると恨んでいた。
 青山の高等部に在学した一夏、私は父の故郷米沢と母の故郷会津の旅をした。青山の学童生活も、初期のベルボーイ(先生方のお茶くみや使い走り)やジャニター(janitor 掃除夫)をしているときに比べ、教諭補や司書等の職務となって経済的にも恵まれたので、一念発起して上野より旅立った。
 東京にいるときは、漠然と山形県の米沢と福島県会津は遠いものと思っていたが、米沢の親類に案内されて行ったかつての父の家から会津の母の生家までは山越えの米沢街道を歩けばわずか6−7里の里程で、夜明けとともに歩んで、夏のまだまだ日の高いうちに母の実家に着いた。しかし、祖父は既に亡く、母の兄すなわち伯父の代になっていた。更にそこから2里半ほどの若松に近い東山の湯治場で、松本屋という団子屋を営む母の妹すなわち叔母にも会った。


 この叔母が、姉である私の母を思い出したのか、初対面の私を見るなり懐かしそうに抱きしめるのには狼狽した。まるで今、アンが私の頭を抱えるがごときであり、記憶にない母への追慕の念とともに、何か心の休まる思いがした。