Dr. Marks のまだ題のない小説(その6)
All actual historical characters, if you think so, are set in fictitious situations by the author’s imagination. Please do not confuse fictitious characters with real persons.
ちょっと今日はセンチな気分だが、逆に、この習作を続けて書いてそんな気分を吹き飛ばそうと思う。なお、その前に、久々に本来のブログを本家に書いたが、何というか Mark Goodacre 先生の助けで書いているようなものである。
彼のナレーションとは別に、多少説明を加えながら、4つの福音書の特徴を短く書いた。福音書というものは4つある。4つもあると矛盾もある。それなのに、古来より、キリスト教の指導者たちは、意識してこの4つを4頭立ての馬車のように並立させてきた。
我々は、小説であれ何であれ、雑然としていたり矛盾があると、嘘だと思ってしまう。実は違うのだ。本物ほど雑然としている。たまねぎは、たまねぎの形でたまねぎなのであり、一枚一枚分析してきれいにむいていくならば、もはやたまねぎどころか、何もない空虚となってしまう。
きれいすぎるのは人工的で好かん。俺んちは汚いぞー。だいたい、誰も片付け物はしないうえに、やたらと外から本やら何やら持ち込んで、机やテーブルに積み上げて、それで足りなくて床にまで置く。あのな、逆に、アメリカ人の家にはな、何のためにきれいにしているのかわからんものがあるんだぞ。きれいなダイニングルームがあるのに、ちっとも使わんで、台所の隅で食べるという家があるんだ。その根性がわからん。
小谷野先生の連載は、本当に終わったのかな、寂しいな‥‥。
次回になぜこの小説に題がないかなど語ってみたいと思います。予定通り行くかなー。明日は小説休みたいなー。
「はっはー、我が家はコモンな日本人名のオンパレイド(common Japanese names on parade)ね」
「我が家?」
「そう、我が家」
「確かに、僕は高橋だし、母の旧姓は鈴木だが、そのほかにはどうなのかね」
「あら、知らないの。私の旧姓も日本人に多いアベよ」
確かにそうだ。アンもアッベ博士と同じ姓である。あるニューヨークで会ったアベという姓の日本人が、自分の姓をAbbe というふうに綴っているのを見たことがある。アンの家はドイツから移民したユダヤ人であるが、いずれもキリスト教に改宗しており、一般の欧米人に同化したいという思いが強いようだ。
しかし、彼らがキリスト教に改宗しようがしまいが、民族的な帰属意識まで失っていると見るのは間違いであろう。アッベ家は、ユダヤ人の富豪 ジェイコッブ・シッフ(Jacob Schiff)とも親しく、日露戦争にあたり、反ユダヤのロシア政府に対抗して、日本支援の義援金を駆り集めることには熱心だった。
可笑しかったのは、シッフが日本からの使者である高橋是清を支援していたことを知っている人々が、同じ姓なので是清は私の親類だと誤解したことだ。そのときアンには、ブラウンとかスミスのようにありふれた日本人名であることは説明していたし、鈴木、佐藤、斎藤、ワタナベなどと一緒にアベも多いことは教えていた。
「ミスター・オカモトは?」
「いろいろな字はあるが、オカモトという発音なら、それほど珍しくはない」
「岡本さんは素敵な人ね。英語もお上手」
「ああ、立派な人だ。アッベ博士も感心していた」
「センタは日本でもアメリカ人の中で働いていたから自然な英語を話すのはわかるけど、岡本さんはどこで英語を覚えたのかしら」
「彼の出た東京府中学や第一高等学校は、大学で学べるように初めから英語教育は盛んだからね。しかし、それにしても彼は特別だろう」
「そういえば、あなたのお祖父さんのドクター・スズキはどうなのかしら」
「話したかどうかはわからない。ただ、須賀川の西洋医学校に通ったので、多少は学んだのだろう。読んだかどうかはわからないが、会津を訪れたときに英語やフランス語の書物があったことは見ている」
そのせいなのだ。読んだに決まっている。ある自由民権思想のフランス語のパンフレットに傍線を引いているのを確認した。西洋の書物のせいで、祖父はあんなことになった。
伯父は祖父が嫌いだったようだ。祖父は生涯を人のため、地域のために尽くしたが、実の子である伯父はそれが不満のようだった。学問をするよりは働いて金を溜めることに精出し、祖父が人のために手放した土地を、後になって伯父は逆に買い漁っていたと聞く。伯父は祖父について「親父はね、人のためといって只で診療し、人のためといって牢屋にまで入って、結局は好き勝手なことをする道楽の人生だった。娘であるお前の母さんも苦労のし通しで婚期が遅れたが、後妻ででも東京に出て行くことができたときは、私もほっと安心したものだ」と、こう言いながら、実際にため息を吐いてみせた。
「私は、偉いお祖父さんだと思うわ」
「僕もそれは同感だ」
「実際、近所の人にも話を聞いたが、伯父さんはむしろ私の兄と同じで、何事にも心配がすぎるから、前に出ることができない」
「あら、人のことを心配性だなんて、あなたはどうなの」
「ははは、確かに、アンに比べれば心配性だね。しかし、祖父に似た無鉄砲さはあるかもしれない」
「そうそう、若いときは無鉄砲というかやんちゃな人だったそうね」
「うん、それに頑固で一徹だ」
「義憤が元で、あわや真剣勝負の決闘になるところを役人に止められたことがあるんでしょう。それから、若いときは近所の娘さん方の憧れの的で、お祖父さんが通りを行くと皆が振り返って見たとか」
「会津で複数の人からその話を聞いたから本当かもしれないが、多少偶像化されだしたから嘘かもしれない」
「ハンサムだったことは信じるわ。あなたに似ていたはずだから、私が保証します」
アンだけではなかろうが、見栄えのいい男はそれだけで信じてしまうのが女だ。あの男、岡本捨松理学士も、知的な顔立ちの上に、どこか目元と口元に情熱を秘めており、男から見ても好ましく感ずる、何か人を惹きつけるものがあったことは確かだ。