Comments by Dr Marks

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Dr. Marks のまだ題のない小説(その7)

DrMarks2008-01-10


お前は仕事もせんで何をしちょるかと言われそうだが、書きたくなるから仕方がない。何とかこの遊び(←ブログ小説書き)から逃れないと後で仕事が溜まって泣きをみる。これは小学校からの悪い癖だ。熱中すると止まらなくて‥‥、熱中なんて嘘で何かから逃げているだけだが。

私の遊びは猫猫先生が書いてる間はと思ったのにあちらは終わってしまった。少々寂しくなっていたところ、事の次第が先生のブログに載っていて納得。私も小説(その6)の下に、小谷野先生の小説ではなくブログに対する感想を書いた。なお、その間にウチダ君のブログに対する感想も書いているので、小説同様ご覧あれ。そういえば、どこかでウチダ君は山形と会津に関係があると言っていなかったかね。ウチダ君は我が小説の主人公の縁戚か。(しかし、今日はニューハンプシャーでヒラリーが勝ってよかったなあ。誰のためによかったと思う。ビルちゃんのためさ、今晩は聖書で頭小突かれたり、泣かれたり、八つ当たりされなくていいもの。)

遊びの小説だから、もうそろそろ終わりにしないと仕事にならないので、話の足を速めようと思う。馬鹿編集者は買いになど来ないだろうから、約400−500の愛読者のためだけに書く。そもそもだ、話はちっとも進まないで明治39年6月1日のままじゃないか。その間に、過去に戻っている。まあ、戻るのはいい。また戻ってもいいが、3週間ほど話を先に進めよう。いきなり3週間かもしれんが、そのほうがテンポがよくていい。

さあ、アメ車だぞ、アメ車〜〜。フォードもいいが、スタンリーだ。兄弟といえば、ライト兄弟だけではない。スタンリー兄弟のアメ車だぞ〜〜。 (写真は、この物語に登場するのと同型の Stanley Steamer Mountain Wagon。残念ながら、これは1914年型?。1906年の同型の写真は入手できなかった。かっこ、いい〜。)

あっ、そうだ。思い出したことが二つ。まだ題がない理由を書き忘れた。それに、なぜか日付が先付けだ。ちょっと、休んだほうがいいのかな。

 横浜港には岡本理学士だけが立っていた。兄にも船中より到着時刻を電報で知らせてあったのだが、出迎いに来いとまでは書かなかったので来るつもりはなかったのであろう。後でこちらから神田美土代町まで帰朝の報告に出かければいい。


 岡本理学士は英語で「高橋博士ならびに令夫人、ようこそいらっしゃいました」と挨拶した。ワシントンで会ったときと変わらぬ西洋風の流麗な身のこなしで、アンの手を恭しく取るが、わざとらしさも衒いもないのは、育ちから来るものか。


「博士、お荷物はこれだけですか」
「はい、これだけです。トランクが4つあります。しかし、岡本さん、ここでは博士はよしてください。それに、あなたは私より年長者であられる」
「いや、博士、それは困ります。年など関係がありません。確かに、私は博士より三つ年上ですが、そんなことは何の関係もないアメリカが羨ましいくらいです。それに、もともと、私をはるかに上回る学者をとの校長の依頼で博士を招聘したのですから、皆が高橋博士と呼ぶことになるのは当然ですし、私にも博士と呼ばせてください」


 しかし、岡本理学士は、荷物の数を聞いただけで持つのを手伝おうとはしない。何かを待っている様子であった。そして、「博士、今日は鉄道でも馬車でもなく、ましてや人力車でもないもので参ります」などと言う。
「ほう、何でしょうか」
「自動車です」
「自動車? 私たち皆が乗ってこの荷物もですよ。何台で来られたのですか」
「1台です」


 そう言っているうちに、大きな自動車が現れた。


 「あっ」とアンが息を呑んだ。「あれはスタンリー・スティーマーのマウンテン・ワゴンよ。ワシントンでもめったに見ることのできない新型の自動車だわ」
「そうです。ミセス・タカハシ、よくご存知ですね」岡本理学士は、早口で、「運転手はアメリカから連れてきました。ミスター・ダンネマンといいます。技官ですからミスターを付けて呼んでください」と付け足した。


 どうやら、今年初めに帰国した岡本理学士は、スタンリー社に掛け合って運転だけでなく、修理もできる人間を斡旋してもらったらしい。人馬による陸軍の時代ではなくなることを予感した参謀本部からの依頼であり、シッフから金を受け取って、岡本理学士がいつの間にか調達していたのだ。運転手は一種のお雇い外人で、肩書きは参謀本部付の技官であるから、ミスターを付して遇しているとのことだ。本人も一介の馭者などとは違うつもりでいるらしいが、実際はなかなかの働き者で、自動車を常に最上の状態に保っているし、参謀本部の高官を乗せるときはそれなりの遜りで、かつ小まめに気働きをするよい運転手のようだ。

 
 実際、ミスター・ダンネマンは、我々に簡単に挨拶を済ますと、一人で荷物を3列目の座席に次々に押し込んでいった。この自動車は、座席が3列あり、9人座れる。なるほど、1台ですべてのことがすむ。


 アンが運転席のミスター・ダンネマンと嬉しそうに話している間、私はあれこれと陸大の話を岡本理学士から聞かされることになったが、それらの子細は後にしようと思う。ともかく、日露戦争の間、閉校の状態だった陸大を、この年9月から再開するために、私は初めから教授として招聘された。これは、私が単なる研究者ではなく、渡米する前に1年間、名古屋の中学校で数学を教えた経験があり、そのときの評判まで調べ上げたうえでのことらしい。


 「あらっ、雨が」幌にかかる雨の音で、アンが驚いたように窓から空を見上げた。
 「梅雨といって、今の東京は雨季なのです」と岡本理学士は説明し、「おそらく、1週間もするとこの梅雨が明け、乾いた暑い日々が続く本格的な夏になります」と付け足した。
「日本のお天気の第一人者の予報だから間違いはないわね。だけど、センタはこれから世界のお天気博士になるわ」
「おいおい、そんな根拠のない自慢はするな。それに、人前でセンタと呼ぶのはよせ」
「はいはい、ドクター・タカハシ」
「またか。人をからかうものではない」


 ミスター・ダンネマンは笑っていたが、岡本理学士は、耐えられないような苦しい表情で窓辺に目をやり、沿道の町並みを見つめていた。自動車は小一時間で品川に至り、間もなく赤坂区山北町の官舎に到着した。そういえば、ここから2−3丁で青山学院だ。私はとても懐かしかった。