Comments by Dr Marks

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Dr. Marks のまだ題のない小説(その11)

DrMarks2008-01-15


執筆を休む、とか言っちゃって。「執筆」だぜ。大笑い。

やはり、書きなぐりは書きなぐりだな。どうも変なところがある、と思っていたら、また書きたくなった。明日はもうどうでもいいや。ああ、罰当たりだ〜。しかし、これは、まぁ学園もんだな。しょうがないか、あの西片町の漱石先生でさえ、小説家じゃない、学者が書いてんだ学者が、文句あっか、って言ってたわけだから。

(写真は、この小説の頃のアナポリス海軍兵学校全景。今ならワシントンから車で40分の距離。)

荻上に関する最新の『猫猫』で「私が卒論を書いていた時に、何度か米国の新聞を閲覧に行ったものだ。」と書いてあった。ぎょ、引用中の「私」とは小谷野博士。この僕ちゃん Dr. Marks も同所に日本の古い新聞(日本の英字紙もある)を見に行っていた頃がある。旧式のガチャンガチャン(←わかる人はわかる)で読んだものだ。ニアミスあり? いや、違う。猫猫先生の卒論の時期(1986−1987)だから、ありえない。

そういえば、荻上兄ちゃんなどとは違ってWPの履歴では小谷野先生の修士号がない猫猫先生は、駒場に多い、いわゆるストレート課程だったのね。

(ストレート課程とは、アメリカ式というか、いきなり修士号なしに博士課程に入るコースのこと。そんで、このコースで落第してオマケの修士号を取ると博士落第だったことがすぐわかる。だから、オマケを辞退して他に移る根性の人もいるが、諦めた人は役にも立たない修士号を押し頂いて帰る。だって、事情を知らない人なら、「へー、修士取ってきたのー」って感心してくれるもの。僕も暴露好きだなー。おっと、念のため。修士号所有者すべてが落第坊主や落第お嬢さんにあらず。僕もストレートコースで博士号を取ったが、別に得た修士号も持っている。荻上兄ちゃんも別なんでしょうね。)

All actual historical characters, if you think so, are set in fictitious situations by the author’s imagination. Please do not confuse fictitious characters with real persons.

 実にのんきなものだった。妻と私は東京に落ち着くことにやっきで、陸大内の動きや、官舎での微妙な雰囲気に気づかずにいた。
 その後、砲兵科教官の中佐が軍刀に手を掛けて岡本理学士を恫喝した事件があったことも知った。流石に井口校長が中佐を叱り飛ばしてその場は収まったそうだ。井口校長とは二度語り合うことがあったが、自分では教育に熱心な軍人であるという印象だけであった。事実、井口校長は校長に就任する前に何期か陸大の砲兵科の教官を経験している。官舎においては、我ら夫婦は、極端に言えば確かに孤立していた。アンが日本語を話せないせいであると思っていたが、今になってみるとそれだけではなかったようだ。
 ともかくも、岡本理学士の抜けた陸大の授業割りはなかなかに厳しく、歩兵科と騎兵科にそれぞれ幾何と代数、更に物理の講義を受け持つと、現実に気象学の授業の余裕はなかった。


 井口校長にしろ砲兵科の中佐にしろ、凱旋の後に別人のようになってしまったと、かつて一教官であった校長の過去を知るものがつぶやいたことがある。確かにその通りかもしれない。
 近頃はやりらしい夏目漱石という文学士が、『帝国文学』にこの春書いたものを読んだ。「陽気の所為で神も気違いになる」なら、人間が気違いになるのも道理である。「居は気を移す」なり。人は環境を侮ってはならない。また、この夏目なる文学士は、新聞をも「新聞は横から見ても縦から見ても紙片にすぎぬ」と書いていた。新聞諸紙の戦勝記事のほとんどは事実とはほど遠かろう。ましてや人間の真実などには思いも至っていないはず。夏目なる文学士は、まことにもって具眼の士。
 この『帝国文学』は秋山真之海軍中佐が、この夏私にくれたものだ。実に、不思議な縁で繋がれていたものだと驚くが、私たちはワシントンで秋山という海軍将校に会っている。もっとも、このこと自体は不思議ではない。私は、ワシントンから30マイルほどのアナポリス海軍兵学校(United States Naval Academy)から来る生徒に毎年講義するアッベ博士の助手として鞄持ちをしていたから、同じ日本人としてこの海軍将校に紹介された。なかなか好人物だと思っていた。
 驚いたのは、この秋山海軍中佐が、あの高梨上等兵の遠縁であり、どちらも本をただせば伊予松山の出であった。しかも、秋山海軍中佐は、海軍大学校で藤井海軍大佐と同時に教官を務めていた間柄であった。藤井海軍大佐と岡本理学士が懇意であることは以前に述べたとおりである。
 この秋山海軍中佐が、東郷平八郎司令官の許で旗艦三笠上の主席参謀だったとき、例の「天気晴朗ナレドモ波高シ」を起草し打電せしめた陰に岡本理学士があったというのが陸軍の見方だった。しかし、「潮流や波浪に詳しくないわけではありませんが、東京にいて日本海の正確な予報まではできません。それこそ予報どおりでなければ、どのように責任を取ることができますか」と岡本理学士は私に語った。その通りだと思う。基本的な天候の認識は、友人同士であるから同じだとして、最終的には気象学も修めた秋山海軍中佐が現地で判断したものであろう。
 高梨上等兵によると、秋山海軍参謀はもともと武の人ではなく、文筆の人であったらしい。先年没した伊予出身の正岡子規という歌人と懇意であり、同じ時期に大学予備門で学んだ関係で夏目漱石とも親しく、事情が許せば帝大文科大学に進学するところを、海軍兵学校に道を変えたとのことであった。そのため『帝国文学』を手にする機会があることもむべなるかな。


 軍刀で脅されるような生活にあった頃だと思う。妻のアンが最初に気づいた。夏服のせいもあるが、アメリカで銃の知識が多少ある者ならば気づく特徴ある形が、右ポケットに見えた。
「わかりますか」
「レミントン・デリンジャーでしょう。姉が持っていました」
「その通りです。しかし、参謀本部の者は気づいていません。気づかないふりかもしれませんが」
「わからないのでしょう。しかし、また何で?」
「いや、単なる護身用です。アメリカにいたときからです」
アメリカならともかく、学者が日本の中で護身というのが不思議だった。
「22口径のものですね」とアンが尋ねると、
「ええ、ほんの気休めのおもちゃです」と、彼はか細く答えた。


 気休めなおもちゃでなどあるものか。22口径でも1発であれ2発であれ、まともに至近距離からくらえば即死だ。今になってわかった。あの温厚な岡本理学士でさえ、「居は気を移す」。神でさえ気が狂うものなのか。狂気は伝染するものなのか。