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Dr. Marks のまだ題のない小説(その15)

DrMarks2008-01-25


いつもいつも小説本文より解説のほうが長いというのもおかしなものだ。しばらくは時間がなくて書けないので今日は本家にも面白い大統領予備選挙の YouTube を載せ、小説もがんばって少し長めに書いてしまった。2月初めまで忙しい。(それからも忙しいのは同じだが、これは書いても金にならないからなあ。おーい、誰か買ってくれー、ナンチャッテね。誰も相手にゃしないよ、わかってるって。)

今日は慌てすぎて大損だ。まあ、不幸中の幸いという部分もあるが。ダウンタウンに近いところで車を停めたとき、通りの反対側が週に一度のストリートクリーニングの日で、午後3時までは駐車禁止であることを確認した。そのとき2時半。従って、混んではいたが反対側に空きを見つけて停めた。しめしめということで4時過ぎに戻ると、折りしも雨の中、オイラの車がトウイングカーに載せられて持っていかれるところではないか。すわ一大事。ウェイ、ウェイ、ウェイート!停まっちくれー! なんとか出る直前に捕まえて助手席に乗せてもらう。反則切符も切られているし、トウイングカーの費用も払わなければならないことに変わりはないが、タクシー代わりに親切なトウイング(towing)の兄ちゃんの助手席に車と一緒に乗せてもらって「事務所で152ドル納めたら、そのまま乗って帰れるよ」と慰められながらも目に涙。空には雨のしーくしく。

大体ね、自分が停める反対側の標識を見たのに、自分が停める側の標識は見ない馬鹿がいるか。ストリートクリーニングを妨害するだけなら駐車違反だけだが、私は午後3時から通勤時間帯駐車禁止のところだから、駐車違反切符プラス持ってかれたというわけだ。最悪。ああ、「どうして近くの有料駐車場に停めなかったの、このケチンボのアンポンタン」と叱られるだろうな、帰ったら‥‥。でも兄ちゃんの助手席に乗せてもらったのは感謝。でなきゃ、今頃「僕の車どこの車溜め」って警察に電話しまくっていなければいけなかったから。

あんとき、「しめた、うまくいった」と思って、実は3時まで禁止のほうに停めている人におせっかいにも標識を示して教えてやった。「生兵法は怪我の元」ってね。猫猫先生書いていた Alexander Pope An Essay on Criticism の Part II の初めのほうにある。 "A little learning is a dangerous thing . . ."

(写真は1銭青銅貨。1銭を笑っちゃいけませんよ。今日は5ドルをケチってトホホホホ。)


「先生、少し早めに夏休みを取られて軽井沢か草津にでも骨休みに行かれてはいかがでしょうか」高梨が心配して見舞いに来てくれた。
 私は理科の学生が主で、英語科の学生である高梨に接することは高師の中ではなかったが、小まめに我が家に来訪し、妻とは英語で歓談していった。妻によると、高梨は我が家の誰よりも喜世が目当てで来るらしいと見ていた。なるほど、そういえばそうかもしれん。


「しかし、軽井沢は薮蚊がひどいそうじゃないか。それに草津の湯も私の心臓にはきつそうだ。どこか鎌倉のお寺にでも厄介になりたいと思っている」
「えっ、教会でなくお寺ですか」
「うん、信仰というより健康のためだから、広いお寺の中なら涼しいのではなかろうか。それに山よりも海がいい」
「そうですね。先生は海洋学者でもありましょうし、アナポリスも懐かしいでしょう」
「確かに、山もいいが海はもっといいね。昔、父や母の故郷を訪ねて米沢から会津を旅したことがある。そのときの山々は美しかった。米沢街道の峠を越える山道も良かった。母の生家の東には磐梯山があり、西には飯豊山が見えるが、飯豊山の頂上付近には万年雪がかかっていると伯父が話していた。しかし、会津から郡山に出るときに猪苗代湖を見たときは、まるで海を見ているような気がした。ガリラヤ湖とほぼ同じ大きさでね、地図で見ると形も似ているのが面白い」
「先生と一緒に行ってみたいですね」
「うむ、この体では無理だね」と私が言うと、世慣れず、また適当なお世辞など言うことを潔しとしない高梨は、黙りこくってしまったので、私のほうが可哀想な気がしてしまった。


「高梨、心配しなくていい。そのうち一緒に行けるよ。それよりも、そうだ。アン、喜世はどうした」
「間もなく戻りますよ。青山のミス・ベンダー(E. R. Bender)がジャムを作ったそうでいただきに行っています」
「ミス・ベンダー? 初めて聞くが」
「そうね、知っていたら、あなたはニューヨークでお会いしたかもしれませんよ」
「ニューヨークで?」
「ここ数年ニューヨークに戻っていらしたのが、最近になってまた7丁目の青山女学院の院長先生として再赴任なさったの」
「ほう、女学院のほうね」
「そう、だけど5年ほど前、ちょうどあなたがコロンビアで学位論文の仕上げをなさっていた頃はニューヨークにいらしたそうよ。そちらの美以教会(Methodist Episcopal Church)の看護婦宣教団に所属していたらしいわ」
「なるほど」
「高梨さん、喜世はすぐ戻りますから、もう少しお待ちくださいね」と、アンとしてはからかうつもりはないのだろうが、高梨は、
「いえ、私は何も、先生をお見舞いしただけですから」とうろたえてしまう。

 そうこうするうち、喜世が戻った。ガラスのビンに詰めたイチゴかラズベリーのような色のジャムが入っているビンを二つも提げている。
「ただいま戻りました」と言うなり、高梨が居間に座っているのを目にすると途端に喜世の目の周りが赤く染まった。なるほど、そうか。


 喜世とアンは直ぐにパンを焼き、もらったばかりのジャム、実はイチゴではなくラズベリーだったが、それを塗って籠に載せてきた。更に、井戸水で冷やしておいた牛乳をコップに入れて供した。このミルクは、王子の滝野川の在で、まだ暗い朝のうちに絞ったものだそうだ。それを本郷真砂町の修養塾という私塾の苦学生が青山まで配達してくれる。
 神田の兄の紹介だったが、このミルクのために私の力がつくし、また妻が喜ぶので大助かりである。兄によると、この私塾の塾主は吉丸一昌という文学士で、己が苦学したことから苦学生の面倒をみるようになり、上の学校に行けないような子供を引き取って自助の精神で学ぶように教育しているらしい。近頃は夜間中学まで経営し、なかなかの人物と聞く。
 喜世によれば、彼女の故郷の土浦の在などからも、また下妻の親類の息子も吉丸文学士の世話になったとのことだった。それで、遠くから馬車で来てくれるということもあるが、我が家では1合ビンを毎日3本頼むことにしていた。1本は3銭であるから月2円70銭だが、丸めて3円を妻は払っているようだ。しかも、毎朝来る配達の学童にもこっそりと1銭の青銅貨を一つ手に握らせているのは知っている。


 皆が祈りを終えて食べ飲み始めてから、喜世は袂から手紙らしきものを出して妻に渡した。
「ミス・ベンダーから奥様へということでした」
「あら、何かしら。こちらからもお礼の手紙が必要ね」と言いつつ文面に目を通していたアンが、
「喜世さん、グッドニューズよ」と喜色を浮かべて言った。
「皆さん聞いて、ミス・ベンダーが青山女学院に特待の聴講生として喜世を入学させると書いてあるわ」
「私は高等小学校も中途で止めていますが」と喜世が驚いて聞き返すと、
「だから、ミス・ベンダーによると普通部で英語を中心に学んでその結果を見てよかったら、英語科に進ませるということよ」とアンはその文面を私に見えるように示した。
「凄いな、英語専科なら女学校の英語の先生になれるね」と高梨は自分のことのように喜んでいる。