Comments by Dr Marks

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コーヒーブレイクのコメント一つ:ヘッセとシュヴァイツァーの明治39年(1906年)

小説を書くほど時間は取りたくないし、ブログも見ないが、猫猫先生のブログと日常会っている人(すなわちLAの人)のブログは幾つか今覗いた。まさに、一休みのコーヒーを飲みながらである。昨日は学校が新しいEメールシステムになり、自宅の Outlook からも利用できるようにする算段とブラックアウトの間に来ていたメールの処理で時間を取られ、ブログさえ見なかった。

さて、この話は本家向きの神学の話題を少しだけ含むが、偶さかに考えたことをこの分家に書く所以は、猫猫先生松永美穂とかいう早稲田大学のドイツ文学者の翻訳について書いていたからだhttp://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080129)。そこから以下の妄想が始まった。松永という名前は初めて聞いたので見てみたら、純粋な東大独文の出身らしい。昔の噂だが、東大の英文はだめだが独文はいいぞー、と聞いた気がする。

小谷野先生のこの話は松永の直接の話なのか誰かの聞き書きの記事なのか、日本の事情に不明なので、私はよくわからなった。もし、その記事が(http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2008/01/20080127ddm015070040000c.html)のことであれば、これだけでは松永の真意はよくわからない。なお、この記事の中でちょっと奇妙なのは、「字い引き」という訳語が何か特別のように書いていることだ。これはそもそも、すでに高橋健二昭和13年(1938年)の訳にある。(←これは希覯本で日本の大学図書館でも数館しか所蔵していないが、今私の机上になぜか1冊ある。)

なお、小谷野先生が述べられた『車輪の下で』という訳が登張正実の訳にすでにあるというのは何かの勘違いではないだろうか。登張の訳は高橋と同じ『車輪の下』のはずだが、違うのだろうか。ほかに、秋山六郎兵衛訳は『車輪の下に』だが、『車輪の下で』で新味を松永が出したということだろう。いずれも手許にないのでわからない。(←注および訂正:やはり小谷野先生が正しいようです。コメントをご覧ください。)

しかし、結論を先に言えば、「に」であろうが「で」であろうが、ドイツ語の文法上は合っているが、日本語の「に」と「で」の微妙なニュアンスを考慮すると、どちらも使わず、単に車輪の下』とするほうが賢い気がする。原題のUnterm Rad とは Unter dem Rad で3格支配だから、絶対に「車輪の下へ」ではないが、「に」や「で」で固めてしまうと、融通性のないものになってしまう。

この他、記事には古い版から訳したとあるが、何を言っているのだろうか。今、手許の Suhrkamp の全集によれば、草稿は 1903 年だが、初版は 1905/1906 年とある。どちらを言っているのかわからないし、この種の文学作品は古ければいいというわけではない。作家が満足に思わないから推敲のうえ改訂するわけで、その作家の意に反して、古い版から訳すなど作家に対する冒涜であり、愚の骨頂だ。

今、手許に岩波の高橋訳があると言ったし、ズールカンプのドイツ語版全集があるとも言った。昔から高橋の訳がどうのこうのと言われていることは知っている。いくつかは誤解であるが、そのとおりのところもある。誤解の一つは「明るい瞼」だ。これは高橋訳が正しい。決して、明るい「色」のまぶたなどではない。自分の瞼を目を閉じて自分が感じる光であり、他人が自分のまぶたを見ているのではない。まさか、お化粧をしているわけではないのに、「明るい色のまぶた」なんて気持ち悪くないか。

しかし、この手許の高橋訳で次の有名な一節の訳はいただけない。

Nur nicht matt werden, sonst kommt man unters Rad.(原文)
疲れきってしまはないやうにすることだね。さうでないと、車輪の下じきになるからね。(これは高橋 1938年訳、以後の改訂版はどうか?)

本当の意味は逆だ。

疲れて立ち止まらないようにすることだね。そうでないと、車輪の下じきになるからね。(Dr. Marks 訳)

と訳すべきだ。現に、Michael Roloff の訳では、

Just don’t let up or you’ll get dragged beneath the wheel.

となっていて、こちらが正しい。そもそも「努力することを約束するか」と言われた後の校長の言葉だから、高橋訳はつじつまが合わない。さて、松永訳は?

そもそも、学者が翻訳などしているのが日本の実情だというのは悲しいし、翻訳の些細な違いなどどうでもいいではないか。学者が自分で訳すほどの意義はあるまい。学者が小説を書くことよりも馬鹿げている。(お前だって翻訳を出版しているのではないかと言われそうだが、反省して二度としないと決心したんだ。これからは自分の本しか書かん。)

これ以上に、いろいろなことが浮かんできたのだが、今日はこのくらいにする。最後に、シュヴァイツァーがなぜ出たかだけ簡単に説明する。

私の小説は明治39年から始まったが、この年にヘッセの『車輪の下』が出て、シュヴァイツァーの『史的イエスが出た。シュヴァイツァーは1899年に24歳でカント哲学の学位論文を出し、1901年には神学の学位論文を出した。この神学の論文とその後のストラスブールでの講義と読書の結果が名著『史的イエス』だが、これは1906年に出版された。

この頃のプロテスタント側の(特にドイツの)神学の特殊な状況など何も知らぬ独文学者が、この『車輪の下』は詰め込み教育の批判であるなどと聞いたふうなことを言っているが、そうではない。どうしてかというのは、またの機会とする。なにしろこんなことを書き出したら、私は切りがない。(←例えば、靴屋のフライク親父の言ってることは本当だ。)そうそう、高橋が「上の学校に」と訳していることだって、19世紀末当時のドイツと日本の教育制度を理解していないと、勝手に「大学に」なんて訳してしまうんだよね。知らないというのは恐ろしい。 (←俺のこと)