Comments by Dr Marks

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Dr. Marks のまだ題のない小説(その16)

DrMarks2008-02-01


結局、明日から2月で、私の状況はますます厳しくなるのだが、que será, será。なるようになって、人間は何よりもバランスが大事だから、小説はときどき書いて遊ぶことにした。とは言っても、歴史小説なので、仮名の主人公以外は、実名や実名を匂わせる歴史上の人物や機関名が出てくるので確認するのは大変だ。例えば、今回、聖路加国際病院の初代院長の長女が登場するが、実名であり明治40年に実際に3歳だった。

歴史小説で気をつけなければならないと思うのは、歴史上の事実にばかり気を取られて、小説が小説であるべき瑞々しい表現に欠けることだ。今日も読み返してみて「なんじゃこりゃ、聖路加国際病院の歴史じゃないか」などと思ってしまった。しかし、事実や歴史がどうであれ、これは歴史「小説」であって、正確な「歴史」ではないことに常に留意願いたい。

さて、猫猫先生のコメントにもあったように、何でも「自分が最初」と軽い嘘をつく学者は多いもの。この主人公である気象学者高橋哲(←本名ではない)のことをある会誌で初めて取り上げたのは私であるが、実際に陸大と高師の教授だったのだから、他にも何らかの記録があるのは当然である。例えば、M氏の助けを得て見ることができたが、当時の東京高等師範学校の学校一覧には、ちゃんと気象担当の教授として本名が記され、山形県士族とまで書かれている。

その他、大植四郎がまとめた昭和10年刊行の私家版『明治過去帳』(復刻版:東京美術)や文部省系の団体が編纂した『幕末明治海外渡航者総覧』にも彼の略歴はある。しかし、前者『明治過去帳』は極めて正確で(渡航年だけ間違い)あるが、後者は半分以上の情報が誤りである(←いったい何見て、どんなアフォが書いたんじゃ)。もっとも、本人の手記が出版されているが、本人が書いたはずなのに間違いというか「軽い嘘」がある。

(そういえば、私が1992年〔昔!〕に書いたもので、アイオワ州と書くべきところを間違ってオハイオ州と書いてしまったところがあるが、似た発音は困る。まっ、いいか。今さら訂正できないし、人の生き死にに関係ないから‥‥。同じく昔、実験装置を左右逆に裏焼き出版してアワヤ惨事となりそうだったのよりはいい。←これは直ぐに訂正を出したよ、そりゃ大変だもの。)

もうそろそろお気づきと思う。岡本捨松のモデル岡田武松は長生きして文化勲章までもらうが、この主人公高橋哲(←まだ本名は教えない)は岡田より2歳若いのに実に34歳で早世してしまう。当時としては、岡田と同等の新進気鋭の気象学者だったが今では誰も覚えていない。博士論文のほかに幾つかの英文の論文をアメリカで発表しているが、日本では手記を出版した以外はほとんど講義に時間を費やして、専門の研究ができなかったのかもしれない。逆に岡田は、高橋の没後にかなり流行した気象学の一般書を発刊し有名になっていく。高橋は岡田の誘いで帰国したことも事実だが、アメリカで生き残る自信がなくなっていたのかもしれないし、長く生きたら岡田のようになっていたかどうかは保証のかぎりではない。

(写真は、この小説の頃の聖路加病院の玄関。ここから3歳のメアリーが飛び出してくることを想像してみてください。)

 夏になってワシントンのボブ医師から手紙が来た。慈恵医院からの診断を送っておいたことに対する返事である。その中には、狭心症から心筋梗塞に至るおそれがあるので注意すること、なるべく小康を得てアメリカに戻るべきこと、環境の変化と神経の疲労が病を重くするので講義等は休むべきこと、そして最後にトイスラーという若い医師が東京にいるから受診するべきことが書かれていた。
 トイスラー医師(Dr. Rudolph Bolling Teusler)とは、米国聖公会からの医療宣教師で、ジョージアの医学校を卒業して数年前に築地明石町に聖路加病院(St. Luke Hospital)を建てているらしい。ボブ医師は、この若い医師と面識はないが、何かの新聞で知ったらしく、紹介状を認めていてくれた。この病院は青山の家からは近い。早速、尋ねることにした。


 あらかじめボブから知らされていたトイスラー院長は早速念入りに調べてくれた。「確かに時々感じる胸痛は狭心症を疑いますが、不整脈は直接関係はないと思います。精神的にゆったりとすることが必要です」とボブと同じようなことを言った。ミッションがわざわざ送り出した医師であるし、母校で教鞭をとったこともある医学者であれば、彼自身による今の診立ても確かであろう。
「梅雨時がことさら苦しくて、この夏にも参っています。アメリカに帰ったほうがいいでしょうか」と問うと、
「私も最初の年は東京の梅雨と夏が大変でした。しかし、今では慣れました。あなたは長いアメリカ暮らしで、体が付いてこられないのかもしれませんね。あくまでもあなた次第ですが、来年になっても辛いようならアメリカに戻ることも考えたほうがいいでしょう。しかし、狭心症は冬にも気を付けてください。日本の家は寒すぎますから心筋梗塞が怖いです」


 トイスラー博士は大きな目と大きな耳と大きな声の好人物だった。私より少し若いのではないかと思った。帰り際、どこから出てきたのか3歳くらいの金髪の可愛いお嬢さんが妻を見つけてまとわり付いてきた。
「あら、別嬪さん。あなたはどなた」とアンが聞くと、
「あたしメアリー」と大きな目をくりくりさせて、おしゃまに答えた。
 どうやら、院長の娘さんらしく、この子を追ってすぐにミセス・トイスラーと名乗る若い女性も出てきた。その騒ぎに気づいたトイスラー院長も玄関先まで出てきたので、私たちはしばらく歓談することになった。服薬の効果を見るため2週間後の再診を予約してあるから、互いに再会を希望し合って、人力車で帰宅した。


 なるほど、秋風の走りが時折かすめだした8月の終わりには、気候の好転と投薬のせいで体調はかなりよくなった。秋からの授業の段取りをつけたり、万が一のときのために手記を書き始めたのはこの時だ。
 アメリカに戻ればアッベ博士やウッドワード博士が何らかのポストを用意してくださるのはわかっているが、せっかく紹介してもらったところで病弱で休みますでは話にならない。厄介者でワシントンに帰るわけにもいかないと考えていたら、秋から気象学を中心に教授してよいとの高師側の意向なので、日本に留まる意欲も出てきた。


 気象学を軍事のためと考える者もいるが、もともと農業のためのものである。食料と経済の基である農業を支える気象学という認識が受け入れられたことは嬉しい。日本全国の中等学校の教師として巣立つ学生に気象学を教授することは、まさに当初からの私の希望であり、そのために帰国したと考えれば、ここ日本に留まりたいという意欲が湧いてくるのをふつふつと覚えたものである。