Comments by Dr Marks

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会話のない小説:とくに欧米文学について

余のブログでは、いわゆる意味段落と形式段落について二度ほど触れたので、そのキーワードで辿り着く人も少なくない。日本の学校だけの人は、段落に二つの形式があることに何の疑問も抱かないだろう。しかし、アメリカ人に日本語を教えて中級くらいになると、そのことに驚愕する。ええっ、なぜ!?!、って聞かれちまう。

日本語は長い段落に馴染まない。てか、日本民族は長い段落に耐えられないのかもな。だから、耐えられなくて、段落を適当に区切る。ところが英語でもドイツ語でも、一まとまりの論述は一つの段落で書くことを教えられる。逆にこれを日本の学生に説明すると面倒なのであるが、「欧米の段落は、段落の中に序論文、いくつかの本論文、さらに結論文が含まれる」とでも言っておこう。

この違いが小説にも現れる。欧米の小説を翻訳したとして、その小説に会話文のない段落が連続するとしよう。もし翻訳者が段落まで原文のままにすると、日本人は見ただけで読みたくなくなるのである。

余の上級日本語学生は、何か書かせると、実に長い段落で終始する。まあ、その努力には敬意を表したいが、そのあとで「形式段落」を説明する余の努力にも敬意を表してほしいのだよ、諸君。