Comments by Dr Marks

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マルコ伝終結部分に関するガンドリー先生の「特記」について:日本語訳全文とマルクス博士による若干のコメント

ガンドリー先生の新刊にある「マルコ伝終結部分への特別注記」(p. 220)を訳出した。この註解書ではマルコ伝は16章8節までで註解が終了する。更に詳しく彼のこの議論を知りたければ、彼の旧著 “Mark: A Commentary on His Apology for the Cross” を参照のこと。なお、余は先生と同意見なわけではない。現存8節までが真正との意見は同じだが、紛失(欠落)部分があるとは余は思っていない。そこは我が師と意見が一致しない部分である。師のものであれ余のものであれ、どちらにしても「意見」であって、どちらか一方に違いないと断言するものでもないし、互いに他方の可能性を排除するものではない。

訳出に当たって、原文はスペースの関係上、非常に長い一段落になっているが、読みやすいようにいくつかの段落に分け、理由の部分は箇条ごとに行を改めた。ついでに申し上げれば、先生は自身が若いときに英語の先生であった経験から、極めて英文に関して厳しく、余も叱咤されたものである。そのような先生であるから、不明瞭な文を書くことはなく、訳者を泣かせることはない。ただ、余の日本語のほうが、このような学術書を訳出する際には、明治・大正の日本語に親しみすぎて(?)、どうしても古風な表現になるので現代の人には読みにくいかもしれない。英文のほうがはるかに楽であるから、英文を読めるなら下記の原書で読むことをお薦めする。

Commentary on the New Testament: Verse-by-verse Explanations With a Literal Translation

Commentary on the New Testament: Verse-by-verse Explanations With a Literal Translation


複数の、最も古く、かつ質的に最良の写本は、マルコ伝の16章9−20節を含んでいないし、節番号のない非常に短い別の終結部分も含まない。それゆえ、そのどちらも正典的ないし権威的なものとみなしてはならないし、同様に、あまたある他の不確実で、後世にしばしば互いに相反する改竄がなされた劣悪な写本を、権威的ないし正典的なものと斟酌してはならない。

しかしながら、マルコ伝が初めから16章8節で終わっていたのか、あるいは、なんらかの理由で失われた終結部分がかつてあったかどうかについては、議論の余地がある。ここでの16章8節の扱いは、16章1節からの段落を完結するものとしてではなく、16章8節から失われた残りの部分の段落が始まるのだという意見を反映させたものである。この意見を是とする考察には、以下のようなものが含まれる。

(1)マルコは、ちょうどここの「そして、彼女らは〔墓を〕出て逃げ去って・・・」のように、新しい段落を始めるために、「そして」を先行させて場面を移動する記述法を規則的に使っている。

(2)マルコは、イエスが地上にいる間に起こるものに限れば、イエスによる他の予告も成就することを、繰り返し、また細部にわたって語っているので、復活に際して、イエスが弟子に先んじてガリラヤに行くという予告が成就する盛り上がり部分を、マルコが語らずにすましてしまったとは、とても考えにくい。

(3)若い男が、「まさにイエスがおっしゃったように、あなた方はそこで会える」と言明して予告を強化していることは、マルコがその話を端折ったとする考えをありそうもないものとして二重に保証する。

(4)マタイ伝とルカ伝に見られる大まかな内容は、16章8節までのマルコ伝に従っているように見受けられるが、マタイ・ルカともに、弟子たちに伝えよという自分たちの任務を、女たちが携えていくと書き繋いでいる―それは、まるでマルコ伝の、より古い本文にそのような話が含まれていたかのようである。

(5)イエスが復活して弟子の前に現れたことは、新約聖書の中で度々言及されている(他の三福音書ばかりでなく、とくに第一コリント書15章5−8節を参照のこと)わけで、マルコがそのような出現を含めなかったとは考えにくい。

(6)原典ギリシア語本文では、16章8節が「なぜなら」という接続詞で終わっているが、書物一巻の最後を締める単語としては、到底考えられない。

(7)写本史上の一連の古例には、16章8節の終結に対する強い不服・不満が見られるが、その不服・不満こそ、マルコ伝がそこで終わってはいなかったことを〔古代人が〕知っていたということで一番よく説明されるものである。

しかしながら、16章8節が、我らが知る マルコ伝の最終節であるから、そこをもって当座の間に合わせとするしかない。


以上が、我が師の一人ガンドリー博士のまとめである。実際はもっと複雑で、例えば、最後のギリシア語の単語で先生が「なぜなら」と訳したものは γαρ(ガル)であるが、確かに普通は接続詞として理由を示す節の、あるいは文の先頭に立つものの、驚きや疑問を表わす間投詞として文末になる可能性もある。従って、その議論だけでも多くの論文が存在する。決して、先生が言うように単純ではない。しかし、本書は新約聖書全27巻を一書に納めたものなので、この辺りで「間に合わせ」とするしかないのであろう。