Comments by Dr Marks

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重訳と直訳について、感想

直訳と言ったって意訳・直訳の直訳ではない。原語から直接に訳すことだ。

聖書学者は論文執筆に当たっては常に原語から始めるが、前人の訳や他の言語への訳も参考にならないことはない。ましてや文学作品では(学術書でもそうだが)すでに前人のあるいは他の言語への訳が存在する場合は参考にさせてもらうし、そのほうがミスを防ぐためにもよい。

しかし、特殊な原語の作品の場合、重訳がまかり通ることも少なくない。重訳はいったん他の言語に訳したものを更に別の言語に訳すわけであるから、役に立たないわけではないが少々滑稽なことも起こる。

例えば、不完全ながら訳し終えた『阿呆のギンペル(馬鹿のギンペル)』であるが、余も原語原本(原語はイーディッシュ語)を見るまではイーディッシュ語と英語のバイリンガルであるソール・ベローの英訳を重訳することから始めた。間もなく古書で発見した(古書しかない)原語と照らし合わせながら読み進むと、ベローが結構英語の言い回しに勝手に意訳しているところが目に付いてくる。

例えば、ギンペルがパン生地に小便を混ぜるところで「自然が呼んでいる」という英語的表現をするところがあるが、イーディッシュ語ではそんなことは書いていない。むしろ、日本語の「用足ししたくて」のほうに近い表現なのだ。まっ、原作のシンガーが「小便したくて」という直接的表現を避けたためだが、こういう場合に意訳せざるをえないことがしばしばであるから仕方はない。

もっとも、重訳なのに直訳のふりをすると、そういったところで化けの皮がはがれることだけは確かだ。なお、余の訳も重訳のままのところがあるのでいずれ逐語的に確認して訳しなおすつもりだ。出版? いやいや、これはとりあえず関係ない。余の趣味じゃ。(この本を使ってイーディッシュ語講座を続けるかもしれない。約束はしないけど。)