Comments by Dr Marks

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『阿呆のギンペル』番外編:人間は賢くなくていい


とっておきのヨウツベだ。みせたくないくらいだが。作者は Ezra Schwartz。感動ものだぞ。英語と一部イーディッシュ語。
この小説の初回に書いたように初めは原本がなく、いきなりソール・ベローの英訳から重訳で始めた。いい加減といえばいい加減だが、いずれ原本と合わせるとはそのときに約束した。イーディッシュの原本を大学図書館で借りることはできたのだが、特別の書庫に入っていて行くのもリクエストするのも面倒なので古書で探すことにした。

あった。ウィスコンシン州の大学町の古書店が持っていた。良心的な値段なので早速注文したが、来るまで気掛かりなことがあった。説明に、本文はヘブル語と書いてあったのだ。まさかそんなわけはない、イーディッシュ語のはずだが目録係は違いがわからなかっただけだろうと思っても、来るまで心配だった。来たら、思ったとおりヘブル語ではなくイーディッシュ語で、1963年にニューヨークのCYCOから出版されたものである。

原本を見るまでにも、余は原題をローマ字書きにすれば、阿呆のギンペル、あるいはベロー訳の Gimpel the Fool は、Gimpl Tam であることは知っていた。そして、tam の原綴りが何であるかに興味があった。二つの候補があったからである。それはともかく置いておいて、ドイツのヘッセン州の古都の古本屋に注文してまだ届いていないのだが、ドイツ語訳は Gimpel der Narr。つまり、ドイツ語でも阿呆か馬鹿のことだ。ところがイーディッシュ語でもnarr は nar(נאַר)であるから、Gimpl Nar でよさそうなのに Gimpl Tam なのだ。

さて、この物語を読み進んできたのでご承知のように、ギンペルは只の馬鹿ではない。どちらかというと馬鹿正直の馬鹿で、なかなか味わい深い人物だ。この物語の結末は明かさないようにしておくが、ベローの英訳はネットでも入手できるので読みたい人は読めるはず。そうなるとどうしても tam が気になる。最有力候補は、「תם」なのだが普通のイーディッシュ語辞典には出ていない。なぜかというと、この言葉はヘブル語そのものであるからだ。もう一つの可能性は「טעם」であるが、翻字が tam であっても発音はむしろテムである。

後者「טעם」の意味は熱心とか味わいであって遠からず近からず、何となく合っていそうで合わない。前者「תם」のヘブル語の意味は完璧、完成、無邪気、潔白、純真、純心、純潔、天真爛漫、単純などである。どちらであろうかと思っていて、原書が届いたら、やはり「תם」のほうだった。ならば、『お人好しのギンペル』あたりが適訳で、ベローの英訳や独訳者は間違いなのかと思ったが、どうもそうではない。

なぜなら、英訳ではわからないが、冒頭の「僕は阿呆のギンペルだ。自分で阿呆とは思わぬ。」と語るときに、最初の阿呆はtam「תם」であるが、二度目の阿呆は別の言葉でnar「נאר」であるから、やはり「阿呆・馬鹿」と定義されたと考えてもおかしくない。しかしながら、余はせっかくシンガーの元々の言葉でも読めるのだから、いずれこの題名『阿呆のギンペル』を含めて訳しなおそうと思っている。

なお、言うまでもないが、シンガーはイーディッシュ語で書いたのであり、彼自身の確認を経ているとはいっても英語での出版は彼自身の言葉ではない。もちろん、ここは議論のあるところだが、英語文学の作品としてしか研究されないとすれば変なのだ。ただし、ついでに言えば、部分的に納得できないことはあるが(その最大が題名)ベローの訳は上等だと思う。

どうやら、肝心の「人間は賢くなくていい」について述べることを忘れてしまったようだ。まあ、この作品を終りまで読めば、そのような結論になるということだ。人間が人間として生きるためには「賢さ」は邪魔になるだけかもしれない。前日のブログにしたプリモ・レーヴィの詩とともに、そのことを考えるとしよう。このことは余の人生哲学のテーマの一つだから、いずれまた書く機会は訪れよう。