Comments by Dr Marks

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No. 8.

『阿呆のギンペル(Gimpel the Fool)』 8

 夜になってパン生地を発酵させるために覆いを掛けて、自分の分のパンと小麦粉少々をを小さな袋に詰めて家路に向かった。月は満月で、星も輝いていたが、何か胸騒ぎがした。先を急いでいると、僕の前に僕の長い影がうごめいた。時は冬で、新雪が降り始めていた。歌を歌いたかったが、夜も更けてきたので近所を起こしたくはなかった。そこで口笛を吹きたかったが、夜中に口笛を吹くと悪魔を呼び起こすから吹いてはならないことを思い出した。だから、静かに、ただ、できる限り速く歩いた。

キリスト教徒地区の犬どもが、そこを通り過ぎるときに、僕に吼えかかったが、思った。歯をむき出して吼えやがれ。お前たちは何だ、たかが犬ではないか。それに引き換え僕は人間で、素晴らしい妻の夫で、有望な子供たちの父親だ。

 家に近づくや、僕の胸は犯罪人の鼓動のように激しく打ち出した。恐れなどないのに、胸の鼓動は強くなった。もはや引き返すわけにはいかない。静かに掛け金をはずして中に入った。エルカは寝ていた。赤ん坊の揺りかごを見た。シャッターは閉じているが、割れ目から月の光が容赦なく差してくる。僕は幼子の顔を見た。小さな手足を見るなりすぐに愛おしさがこみあげた。

 次にベッドの側に寄った。そして僕が見たのは、エルカの傍らに寝ている見習い小僧の姿だった。月明かりが突然消えた。まったくの暗闇で、僕は震えた。僕の歯がカチカチと鳴る。パンは僕の手から転げ落ち、妻が目を覚まして聞いた。
 「いったい、誰なの。」
  僕は小さな声で、「僕だよ」と答えた。
 「ギンペルだって。どうしてここにいるのさ。来てはならないはずじゃないか。」
 「ラビがいいと言ったんだ。」
 そう答えて僕は熱病のように首を振った。
 「ギンペル、お聞きよ。外の小屋に行ってヤギが大丈夫かどうか見ておくれ。」
 言い忘れていたが、僕たちにはヤギがいた。そのヤギの具合が悪いと聞いて庭に出た。乳ヤギというのは大人しい小さな生き物だ。そのヤギに僕はほとんど人間に対するような感情を持っていた。

 気が進まず、ぐずぐずしながらも、小屋まで行って戸を開いた。ヤギは自分の四足で立っていた。あちこち触り、角を引っ張って、乳房も点検してみたが、どこも悪いところはない。おおかた餌の食いすぎだろう。僕が「お休み、チビのヤギさん、お大事に」と言うと、まるで僕の好意に感謝でもするかのように「メー」と小さな動物が返事してくれた。

 僕が戻ると、見習いは消えていた。
 「若いのはどこだ。」
 「若いの?」と妻は聞いた。
 「とぼけるな、お前と寝ていた見習い小僧だよ。」

(続く)