Comments by Dr Marks

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 第6章(最終回)

頑張って終わらすことにした。猫猫先生こと小谷野敦先生が、筆が進まないなどという気持ちがわからんとか、それに近いつぶやきを昨日していたので、余も頑張った。

アイザック・シンガー原作『チビの靴屋たち』 (もう一つのギンペル物語)

第6章 アメリカへの遺産

アッバの息子たちはニューヨーク市郊外のニュージャージー州にある町エリザベスに住んでいた。彼らの庭に囲まれた七つの家は、湖のほとりに建っていた。毎日彼らはギンペルが持っている靴工場に車で出勤していたが、アッバが到着した日は、父を歓迎する宴のために休みにしていた。

宴はギンペルの家で、完璧な律法に基づいた食事で整えられた。欧州の故国ではヘブル語の教師であった父を持つ妻のベッシーは、髪を頭巾で覆って行なう儀式の全てに精通しており、しかも注意深く行なった。彼女の義理の妹たち、すなわちギンペルの弟たちの妻も皆、同様にふるまった。また息子たちも、かつて大祭にはかならず男子がしたように、頭にヤマカをかぶった。

イーディッシュの言葉は一言も知らない孫や曾孫たちも、自然といくつかの言い回しは理解できるようだ。彼らは皆、フランポールの言い伝えと小さな靴屋たち、また先祖の初代のアッバについて聞かされていた。近所に住む異教徒たちでさえ、その歴史に関しては、実によく知っていた。新聞にギンペルが出した広告には、彼らの家系が靴製造を業とする貴族であると、堂々と宣言されていたからである。

我が社の歴史は、三百年前のブロートというポーランド(現ウクライナのブローディ市)の町から始まります。そこで我が家の始祖である初代のアッバ(我らが父親のアッバはアッバ二代目)が、土地の靴職人の親方について一人前になりました。それからフランポールという町に定住して、一族は十五世代にわたって靴製造の業に携わったわけですが、町はアッバの慈善事業への貢献を顕彰して、彼にマイスターの称号を与えています。この社会的貢献への思いは、一方で靴製造同業者組合の基本要綱に忠実に従うこと、他方で顧客に対しては誠実であるべきという厳格な方針を守ることによって実行に移されてきました。

アッバが着いた日に、ニューヨーク州エリザベス市の新聞各社は、有名な靴製造会社の七人の兄弟がポーランドから彼らの父親を迎えることができた苦労話の記事を載せた。長男のギンペルは、同業のライバル各社や妻たちの親類、更に友人らから、山のような祝電を受けていた。

祝宴は豪華だった。ギンペルの家の食堂には、三つの大きなテーブルが広げられ、一つ目はアッバと息子たちと息子の嫁たちで、二つ目が孫たち、三つ目がひ孫たちのテーブルとなった。まだ明るい時分なのに、いずれのテーブルにもキャンドルが灯されて赤・青・黄・緑の光を放ち、それらの炎が皿や銀食器、クリスタルのグラスとワインカップ、それに過ぎ越しの祭の祝いの席を連想させるデキャンタに照りかえっている。

部屋の隅々まで、置くことが可能な所には皆、花が生けられていた。確かに嫁たちはアッバがこの祝いにふさわしい身なりでいてくれることを願ったが、ギンペルはアメリカに来たばかりのアッバが着慣れたフランポールの長いコートを羽織っていることをあえて黙認した。そのような服装ではあっても、ギンペルは写真屋を呼んで新聞広告用にもなるように祝いの写真を何枚も撮らせたし、ラビと先導唱題師も招待して伝統的な歌で老人の誉れを祝った。

アッバはテーブルの上座のひじつ付きのイスに座った。ギンペルとゲッツェルが小鉢を持ってきてアッバの手に水を注いで食前の祝祷をした。料理は銀のトレイで黒人の女たちが運んできた。さまざまな果実のジュースとサラダが、更に甘いブランデー各種とコニャックやキャヴィアも老人の前に並んでいる。

しかし、エジプト王のパラオヤコブの息子ヨセフ、そのヨセフの雇い主であった侍従長ポティファルの身持ちの悪い妻、ゴシェンの土地、調理長、献酌官、こういった聖書の中のものだけがアッバの頭の中でくるくると回っていた。彼の手は震えて料理を一人でつまむことができず、ギンペルが助けてあげなければならなかった。息子たちが何度も代わる代わる話しかけても、アッバには誰が誰だか見分けはつかなかった。

電話のベルが鳴るたびにアッバは飛び上がった。ナチスがフランポールを爆撃しているのだ。彼にとっては、家全体が回転木馬のように回り続けているのだ。テーブルは天井に張り付いていて、誰も彼も逆さまに座っていた。彼の顔はロウソクの光や電球の光の下で、病人のように青白かった。スープのコースが終わってすぐにチキンが出されたときには、もう眠り込んでしまった。すぐさま息子たちはベッドに運び込み、服を脱がせ、医者を呼んだ。

アッバは結局数週間ベッドで過ごすことになった。その間は熱が出るたびに投薬していたので、意識がもうろうとしたり正常に戻ったり行きつ戻りつしていた。自分で祈りの言葉を口にできないほど弱っていた。昼も夜も一日中監視できるように看護婦も雇った。そうこうする内に、玄関からほんの少しだけ歩いて外に出れるほど快復したが、辺りを認識する能力はまだおぼつかなかった。

洋服をしまっているクロゼットの部屋やトイレに入ると、しばしば出方がわからなくなった。玄関の呼び鈴やラジオの音が怖かった。また、家の側を高速で走り去る自動車のせいで、いつも不安な気持ちを病んでいた。ある日ギンペルは十マイルほど離れたシナゴーグに連れて行ったが、そこでさえアッバは戸惑っていた。

会堂守の顔にヒゲはないし、燭台の火は電気だし、庭のないシナゴーグだし、儀式的に手を洗う洗い場もないし、何よりも、木をくべて焚くストーヴがないじゃないか。先導唱題師は普通の役割通りには歌わず、ちんぷんかんぷんな言葉と、しわがれ声でつぶやくだけだった。会衆は、まるで首に巻くスカーフのような小さな祈祷ショールを身にまとっている。アッバは、さては改宗させようとしてキリスト教の教会に放り込みやがったな・・・と確信するほどであった。

春が巡ってきてもアッバの状態は好転しなかったので、息子の嫁たちは年寄を家の中に閉じ込めておくのが悪いのではないかと思い始めていた。しかし、予期せぬことが起こった。ある日、アッバはクロゼットを開けると、どうやら見覚えのある袋が床に転がっているのに気づいた。

よく見直してみると、フランポールから持ち出した靴屋の道具入れだとわかった。中には、靴型、ハンマーと釘、ナイフとペンチ、ヤスリと千枚通し、それに壊れた靴まで入っていた。アッバは興奮のあまり震えだした。自分の目が信じられなかった。足置き台の上に腰を下ろし、無骨な老人の指で袋の中をまさぐった。そのとき嫁のベッシーが入ってきて、老人が古くて汚い靴で遊んでいるのを見て、おかしくて笑い出した。

「まあ、お父さん、何をしているの。気をつけてよ。手を切らないようにね、お願いだから。」

その日アッバはベッドでまどろむことはなかった。夕方まで忙しく働いて、いつものチキンを多く食べるほどだった。彼の仕事を見にきた孫たちには嬉しそうにほほ笑んだ。次の日、ギンペルが弟たちに父親が昔の習慣に戻った様子を話したときには、皆が笑うだけでそれ以上のことは考えなかった。しかし、間もなく、その老人の活動が彼の健康を取り戻すということに気づかされた。

アッバはくる日もくる日も疲れもせずに靴直しの仕事を続け、クロゼットの中から修理の必要な古い靴を探したり息子たちに革や部品の調達を頼んだりする生活となった。そして呆れかえったことに、とうとう家の中にある男物、女物、子供用の全ての靴を修理し終わってしまった。

過ぎ越しの祭の後、息子たちが集まって、庭に小さな作業場を作ることに決めた。小屋には修理台と革の靴底やなめし革、釘、染料、ブラシなどの収納を、すべて作業に便利な間隔で配置した。

アッバの生活は一変した。アッバが十五歳は若返ってしまったと感動して、息子の嫁たちは泣いた。フランポールにいたときのように、今は夜明けに起きだすようになり、祈りを捧げ、すぐに仕事を始めるようになった。ここでも昔のように、巻尺の代わりに結び目で寸法を付けた紐を使って測った。

最初に作った新品の靴はギンペルの嫁のべッシーのものだった。ところが、その靴が近所の評判を呼ぶことになった。彼女はいつも足の具合が悪いと愚痴を言っていたのだが、アッバの作った靴は今まで履いた靴の中で最高のものだと公言してやまなかった。他の嫁たちもすぐにベッシーに習ったが、確かに彼女らの足にもぴったりだった。

単なる慰み仕事が素晴らしい注文靴となっているという噂を聞いて、近所の異教徒の中にもアッバを訪ねて注文する者がいた。アッバは彼らとほとんど身振り手振りだけで話をしなければならなかったが、皆との関係はすこぶるよかった。

まだ年少の孫たちやひ孫たちは、小屋の入り口で長い間アッバの仕事を見ているのが習慣になった。今や彼は靴屋の収入を得ているので、小さな子供たちにキャンディーを勧めたり、オモチャを買って与えるようになった。それどころか、自分で削ったペンを使って、彼らにヘブル語やユダヤの信仰を教え始めた。

ある日曜日に、ギンペルがアッバの仕事場にやってきた。本気は半ばの面白半分ではあったが、袖をたくし上げてアッバの仕事に加わった。他の息子たちも負けてはならじと次の日曜にやってきて、小屋の中に全部で八つのイスを設えてしまった。息子たちは荒布のエプロンを膝に敷いて仕事に取り掛かり、靴底を切ったり踵の形を整えたり、穴を開けたり釘を打ったりしていると、往年の日々がよみがえるようであった。

息子の嫁たちは小屋の門口に立って談笑しながらも、自分たちの夫らを誇りに思い、彼らの子供たちは父たちの仕事に魅了された。陽の光が窓から差し込んで、舞い上がった埃が光線の中で踊っていた。草原や水面の上の遥か高く晴れ上がった春の空に、ホウキの形や帆船や羊の群、またゾウの群が漂っていた。鳥がさえずり、春の虫がぶんぶん飛び、蝶がひらひらと飛び回る。

アッバは濃い眉を吊り上げて、悲しげな目で自分の跡継ぎの七人の靴職人、ギンペル、ゲッツェル、トレイテル、ゴデル、フェイヴェル、リッペ、ハナニアを見渡した。彼らの髪にはまだ黄色の筋が残りはするものの、もはやほとんど白くなっていた。そして、フランポールの土に残してきた妻のペシャを思った。

いやいや、神に感謝せねばならん。ともかくも息子たちは、誰一人としてエジプトの偶像崇拝者とはならなかったのだから。彼らは自分たちの民族の遺産を忘れてはいなかったし、役にも立たぬものの中に自分を見失うこともなかった。老人は自分の胸の内で、そんなふうに仕方なく自問自答すると、突然、息の詰まったようなガラガラ声で歌いだした。

母さんがいて
十人の小さな息子がいた
おお、主よ、小さな息子たち!
・・・
六人目がヴェルヴェレ
七人目がゼインヴェレ
八人目がヘネレといって
九人目がテヴェレといって
十人目がジュデレだよう・・・

するとアッバの息子たちも合唱した。

おお、主よ、ジュデレだよう!

(諸君、以上がアッバと、もう一人のギンペルと、その兄弟の話だ。一族の長い話でもある。アッバの妻ペシャは、アメリカで成功した息子たちのことを手紙で知らされていたが、どのような生活か想像もできなかったろう。

アッバは、本来なら、アメリカに来ることもなく、ペシャの墓守で一生を終えるつもりだったのだろうが、歴史に翻弄されることになった。しかし、それはそれで、生きて息子たちやその家族と暮らせたことは幸せだったろう。

フランポールはナチスが崩壊しても訪れることはできなかった。ソ連が侵攻していたからだ。ひ孫の時代になってやっと彼らの曾祖母の墓地を訪ねることができたらしい。)