Comments by Dr Marks

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ヒットラーのポーランド侵攻とギンペルの父アッバの運命


「もう一つのギンペル物語」は、あと2章で終わる予定だ。今度はハッピーエンドだから安心しな。それにしてもポーランド侵攻は1939年の9月だから、それに合せていなければならない。ハナカーとかさ。

余のブログにたびたび登場するエンシノ市のガートルード婆さんだが、実は(実はというほどでもないが)1917年生まれなんだ。誕生日が来たら94歳。彼女は一応は4/4(100%)のユダヤ人。父親はコネチカット州ニューヘイヴン(エール大学のあるところ)の時計屋。小谷野敦の父親と同じ。

しかし、婆さんの父親はよくあるように時計屋兼貴金属業だ。婆さんをキリスト教の学校に入れてしまった。イーディッシュも駄目。再びしかし、婆さんは余がイーディッシュで「オイフンプリペツィーク」をギター伴奏入りで歌ってあげたら泣いてしまった。突然、婆さんの婆さんを思い出したんだと。

ギンペルの父親の孫や曾孫が出るが、婆さんはさしずめアッバの孫くらいであろう。婆さんの父親程度の歳のギンペルが靴職人で、婆さんの父親が時計職人だ。アッバの孫もイーディッシュは駄目だ。その年代なんだな。

ガートルード婆さんは英国人とユダヤ人のハッパ(ハーフを意味する日系人用語)と結婚したから彼女の子供たちは英国人クォーター(1/4)。しかし、彼女の孫の一人がエルサレムでラビなのだから不思議。彼らの信仰をうかがわせることは小説の中にも登場する。

アッバがルーマニアまで南下してポーランドを逃れ、イタリアを経てアメリカに渡るが、これも余のブログに登場するメリーHの話に似てくる。メリーHはルーマニアン・ジューだが、ソ連の侵攻時に収容所から解放された(つまり腕に刺青のある)ハンガリアン・ジューの夫とイタリアに逃れ、そこの避難所でアメリカ行きを待った。

彼らはイタリアはローマの避難所で生活していたが、金がないのでヴァチカンに歩いて行って遊んでたんだって。ヴァチカンに日参したのに罰当たりで未だに無神論者だよ、彼らは。

最後に、大事なことを言っておこう。実は・・・内緒ということではないのだが・・・ガートルードの爺さん(祖父)は、アイザック・シンガーの故郷の出で、シンガーとは遠縁なんだ。つまり、ノーベル文学賞受賞者の親戚さ。これホントの話。そういえば、ガートルード婆さんの孫の一人はエルサレムで暮らし、シンガーの一人息子はテルアヴィヴで暮らしてるんだよな。