Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

No.1.

『阿呆のギンペル(Gimpel the Fool)』1

ノーベル賞作家アイザック・シンガーのイーディッシュの原作を、同じくノーベル賞作家ソール・ベローが英訳した作品の和訳(重訳)だ。今のところ重訳だが、そのうちイーディッシュの原文と照らし合わせる。多少はイーディッシュが想像できるのだが、ソール・ベローの訳し方に興味がある。なお、近くにイーディッシュが母語で長くUCLAのイーディッシュ語教授だった人が住んでいる。彼女にはシンガーに関する伝記もあるから原文を持ってるかもしれない。英訳はネットに数種類ありますから、英語で読む方は本を買う必要はありません。私はFawset Crest版が手許にあります。ネットよりは本当の本のほうがいい気持ち。

小説は終りまで訳すとは限らない。ただイーディッシュの文法だけでは面白くなかろうと、紹介してみただけだ。シンガーはショーレム・アレイヘムの影響があることは、これを読んでみてすぐわかるだろう。イーディッシュのことわざに「人より二倍も賢いなら、そいつは阿呆と変わらない」という言い回しがある。また、賢い人が防御的に阿呆のふりをすることもある。しかし、そんなことより、「信じる」ということのほうが大事な人生のテーマかもしれない。余計なお世話だけど。

 僕は阿呆のギンペルだ。自分で阿呆とは思わぬ。むしろ逆だ。しかし、人は僕をそう呼ぶ。学校にいるときに、すでにそのような名前をもらってしまった。もっとも、僕は全部で七つの名前を持っていた。ぼんくら、ロバ、亜麻色頭、うすぼんやり、ネクラ、ぬけさく、そして阿呆。結局、最後の呼び名が突出したわけだ。そんなふうに、僕の愚かさを成り立たせてしまったものは何か。僕が簡単にだまされたからだ。「ギンペル、先生の奥さんが産気づいたことは知ってるな」と学友が言うものだから、僕は学校に行かなかった。そう、それは嘘だと後でわかった。どうしてそんなものを信じたと言うだろうな。奥さんのお腹が大きいこともなかったのだし。しかし、僕は彼女のお腹なんか注意して見たことはないんだ。それが、それほど間抜けなことなのだろうか。悪餓鬼どもは、ロバのようにヒーヒー笑い、おかしさで転げるほど足をばたつかせて踊り、寝る前の「おやすみなさい」の祈りを吟詠した。そして、女性が臥せっているときに人が持っていく乾しブドウの代わりに、彼らは僕の手を山羊の糞で満たしてくれた。僕は弱虫などではなかった。僕が誰かの頬をどやしたら、そいつはクラクフの町まで飛んでいきかねない。しかし、僕は元々そんなに豪腕ということでもない。だから、自分に言い聞かせた、好きなようにさせておけ、と。そこで彼らは優越感に浸ることができた。
 学校から帰ってくるときに犬の吼える声がした。犬を恐れているからではないが、犬どもの機嫌をそこねるようなことはもちろんしない。気違い犬がいるかもしれないし、噛まれたら助けてくれる荒くれ者がこの世に存在するわけでもない。だから急いで逃げた。それから辺りを見回してみたら市場全体が笑いの渦だった。もう犬はいないが「狼の体の泥棒」がいた。どうして彼とわかったかって。わめき散らしている雌犬のようだったからだ。
 いたずら者やからかい屋どもは、馬鹿にするのがたやすいと知って、僕を目にすると喜んで試してみるようになった。「ギンペル、皇帝がこのフランポールの町に来るぞ。ギンペル、お月様がタービーンに落ちたってさ。ギンペル、ちびのホーデル・ファーピースが湯屋の後ろで宝を掘り当てたぞ。」すると僕は、ゴイレム人形のように何でも信じた。第一、今はっきりとは覚えていないが、確か「父祖たちの知恵」に書かれていたように、全てのことはありえるじゃないか。それに、町中の者が一斉に僕に向かって来るのだから信じないわけにはいかないんだ! あえて「そりゃ冗談だろう」などと言おうものなら悶着が起こっていた。みんなが怒り出す。「なんだとこら! 俺たちみんなが嘘つきだというのか。」いったい他にどうすればいいのか。彼らを信じて、少なくとも、そうすることが彼らのためにも良いように願ったのだ。
 〔続く〕