Comments by Dr Marks

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フィド君は死んだらどこへ行くの(Where does Fido go when he dies?)と言われてもね。えっ、葬式はしたほうがいいの、ってか。困った人だ。

クリスマス・シーズンのせいだと思う、こんな話題になっているのは(http://bit.ly/e5cK3G)。フィド君は犬らしいが、死んだらどこに行くのか、という話題だ。まあ、ペット一般だろうが。話題も話題なら、そこに寄せられたコメントもほとんどが頓珍漢だね。

しかし、余もペットを持つ身としては、飼い主が己のペットの死後が気になる気持ちはわからないでもない。しかし、これに対する答なんてないんだよ。このような話題にうつつをぬかさないほうがいい。このブログが話題にしているような、霊魂の存在一般の話題なら、皆が勝手に言いたいことを言うしかない。

ただ、余は各宗教があるいはとくにキリスト教がペットの死後についてどのように考えてきたかについては答えることは可能だと思う。聞いて驚くな。人間の、あるいは自然の再生があるなら、ユダヤキリスト教的には動物の復活もありうる。これは誤解のないように言うが、冬が過ぎてまた春が巡ってきたら新しい命が芽吹いたということではない。かつて地上で生き死んだものと同じ個体が復活するということである。

だから、フィド君が死んでフィド2世を残したということではない。生き返るところを仮に天国だとすると、天国に再来するのはフィド君そのものであるということだ。そもそも神の創造の業として動物も造られたのであるから、もう一度造り直すことができないはずはないというのが理屈である(創世記1−2章)。まあ、そんなわけで希望が持てないわけでもない。

そんなことを言うと、それなら信仰を持って手厚く葬式をしてあげたい、なんて人が出て来るんだよ。しかし、ユダヤキリスト教はもちろん、余の知りうる範囲では、仏教でも犬猫の葬儀を受け持とうとする聖職者は心の腐った(「異端」って言う人もいるが)偽坊主のはずだ。


今、挙げた創世記の箇所を読んでみると、神の創造されたものに位階がある。その生物の順序を見ると、よく中学の理科室にある食物連鎖表に似ている。底辺に植物があって小動物から大きな動物に至るが、さすがに人間は普通書いていない。書けば頂点に立つことになる。この階層型(tropic levels)の food chain table はアメリカの学校でも同じで、同時に聖書的創造説は採らず進化論説の表が同じ理科室にあったりする。余は進化論がどうのこうのという議論のどちらにも組しないが、両方の表を眺めてみれば、創世記の記述を思い出してはなはだ愉快である。

さて、葬式だが、キリスト教においては信仰に基づくものとして人間にだけ最後の儀式をしてあげる。場所はどこでもいい。家でも、教会でも、墓地でも、あるいは遺体がないままでもできる。ところが動物は、位階が人間以下であるということだけではなく、信仰という高度な意識は確認できないからである。従って、個人が属した共同体での儀式である葬式は無駄であるということになる。しかし、個人が(あるいは個人の集団が)死んだペットをゴミとして捨てるのではなく、法律上許される形であれば手厚く葬ることは差し支えないだろう。ただ、ミサなしというだけだ。

もっとも、異端の(「異端」って近頃は差別用語らしいが)坊主に犬猫の葬式を出して欲しければ勝手にすればいいだろう。そこまでしなければ気が休まらないというのも困ったものではあるが。そういう人に限って、困っている人(人間だよ!)を見ても知らん振りなんだな。聖書は(あるいはそれを解釈してきた神学の歴史では)それを言っているんだ。犬猫の葬式をする気があったら、まず人間にしろ、ってね。

葬式をしようがしまいが、天国で生き返るという信仰に影響はない。それは、人間だけではなく、あんたのペットもだよ。ペットだって天国で聖書的には生き返ってあなたとともに神を賛美するのかもしれない。そんな面倒なことを死んでまでするのは嫌だという人は、それはそれでいい。