Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

一般英語としてはFaith と Belief の間に「宗教・信仰・信心」という意味では区別がない(ディーパック・チョプラの小説中で、ハニッフとしてのワラカーについて区別していたので一言)

今日、Deepack Chopra の “Buddha: A Story of Enlightenment仏陀:悟り物語)” (HarperSanFrancisco, 2007) をどういうわけか入手することになったので、とりあえず読む予定もないし、同著者の前に紹介した “Muhammad: A Story of the Last Prophet” の脇に並べた。そして、ついでに調べることがあったのでめくっていると、マホメットを最初に預言者と看破した人間とされるワラカーの言葉としている英語が変だなと思ったので一言。

言葉というのは微妙なもので、オイラーの図でもヴェン図でも構わないが、外国語に訳してぴったりと図が重なり合うことは稀である。だから、同じ英語の中でも faith と belief 違ってもいいではないかとも思われるが、テクニカルな意味でとことん詰めるとどちらも意味に変わりはない。とくに「宗教・信仰・信心」という意味では差はないのである。何かを漠然と信じることにも、特定の宗教・宗派・教理を信じることにも、両語は互換性のあることばとして使われているのが現状だと思う。(ウェブスターなどの説明でもそうである。)

ところが、チョプラはこう書いていた。 “I am hanif, a believer without a faith, like a lone palm tree without an oasis” (p. 60) 。本当は同語反復(tautology)になってしまうのだが、著者の言わんとするところは「私[ワラカー]はハニッフ、つまり特定の信仰は持たない信仰者で、オアシスなど持たずに単独で立つヤシの木のようなものだ」とでもなろう。しかし、余であれば a faith などとやらずにはっきりと a religion とするのだが、文学的にはこれでいいのだろうね。だからといって、faith と belief は別だなどと思ってもらっても困るのことよ。

ハニッフというアラブ語は多神教や偶像礼拝に批判的な一神教徒のことで、「アブラハムの信仰を持つ者」すなわち後代のユダヤ教徒キリスト教徒、イスラム教徒と同じ宗教観を抱く信仰者のことである。ウィキ参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Hanif。なお、イスラムの伝統と歴史家によるとワラカーはどの宗教にも属していなかったのではなく、キリスト教系の(いわゆる異端とされた教派ではあるが)エビオナイツの司祭であったらしい。マホメットの妻カディジャーのいとこでもあるらしい。ワラカーについてはウィキ:http://en.wikipedia.org/wiki/Waraqah_ibn_Nawfal。エビオナイツ(エビオン派)についてはウィキ:http://en.wikipedia.org/wiki/Ebionites

しかし、日本語のウィキはいずれもないんだよね。それほど日本では関心がないということでもある。