Comments by Dr Marks

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Dr. Marks のまだ題のない小説(その14)

DrMarks2008-01-22


このところ小説を書く暇がない。暇がないというと何も進まないので、適当なインターバルで書き続ける。コメントをくださった方々にも失礼してしまった。

ブログも余り読まない。読めない。しかし、先日、マーク・グッドエイカー先生が例のタルピオットの出鱈目なエスの墓の話に関する記事を引用していたのを読んだ。(それは1月21日の記事。また、1月14日のにはシュヴァイツァー博士YouTube が引用されていた。どうして聖書学にシュヴァイツァー博士かって? 博士は医者になる前は、超有名な聖書学者だったの。)

そう、あの墓は出鱈目だ。私の本家での昔の記事は役にも立つと思うので紹介する。この記事には今なお訪問者が時々あり、私のブログのロングセラー(?)の一つだ。

そういえば、猫猫先生も忙しいらしく新しい記事は短かった。しかし、近頃の「教鞭」云々のこの記事は笑えた。鞭を使うどころか、「この馬鹿野郎!」と今日日教室で言ったら、学生が教務に言いつけるってか? 呆れた。どちらかというと、アメリカのほうがまだ教師の権威は保たれているが、それでも共産党員並か本当の共産党の教師(アメリ共産党は健在だから困る)が煽動するから、おかしな学生がいないことはない。

先日、教室で、こちらが優しくしているとつけあがって言いたい放題の学生に、「舐めるなこの野郎!」と言ったら、そんなことを教師に言われたことがない学生はびっくりしていた。それを英語で何と言うかって? 英語では、「舐めるな」じゃなくて「舐めろ」って言うの。参考のために教えるんで、使っちゃ駄目よ。タイミングとイントネーションが大事なんだから、まねしちゃ駄目。下手にやるとやっぱり問題になる。できるだけ顔はニコニコとして、低音で凄みを利かせて、“OK, guys, you can kiss my xxx!” と言うのだが、教師がxxx ではまずいから behind と言い換える。

(本当は主人公のワシントン時代の写真を載せたかったが、いいのがない。この時代は先に掲載した学生っぽい顔ではなく、主人公はずっと紳士の顔になっている。今回は、仕方がないので、出たがり屋の Dr. Marks をまた載せる。この写真は、昨日午後のこと、野暮用で行ったエンスィノ市のハムレットの母ちゃんと同じ名前のオバハンの家からの帰り道、桜の水上公園に立ち寄って蕾の状況を見てきたときのもの。流石に蕾は小さかった。こんな顔して “Kiss my xxx!” なんて言ってんだから、いつまで経っても紳士にゃなれないね。)

 桜は大塚高台の高等師範の校庭にも咲き乱れる。そして、やがて葉桜になる頃には、桐花健児は一連の体育祭に明け暮れる。
 まず、4月の終わりには、隅田川にて文科の学生と理科の学生の競艇がある。このボートレースは、文科理科それぞれに大袈裟な作戦本部が設置され、各地からの卒業生らの電報が披露され、土手一杯の応援団の中で晩春の甘き香りたなびく薄暮の頃まで続く。この頃は、夕暮れといっても、なぜか心はうきうきとし、皆揚々として歌を歌いて帰る。竹屋の渡し守さえも、この日は仕事を忘れて観戦に興じるほどである。
 5月に入ると、我が家に近い青山師範の辺りから玉川の桜楓園まで3里8マイルの長距離競争が行われた。競争の後でご馳走を食べるらしいが、早いものは40分ほどで走りきると聞いて驚いた。私は、心臓が悪く、生徒らに伍して走ることは医者に止められているので、終着地点で待ち合わせて一緒に弁当だけを食した。


 6月に入って梅雨になると、体の具合がとても悪くなった。ここ数年は問題のなかった心の臓が思わしくなく、亡き母が勤めていた慈恵の医者にも相談したが、ゆっくりと養生するしか手立てはないと言われた。また、妻もワシントンのアッベ博士の弟で外科医のボブに症状などを書いて送ったが、東京の気候が合わないのではないかと返事してきた。
 東京で生まれ育ったのにその気候が合わないとは妙な話だが、東部ニューイングランドのウスター市(Worcester)に1年滞在したが、そのときの気候の感じと東京の梅雨は確かに似ている。ボストンから少し内陸に入った町で、ニューヨークよりも北なのに、夏の蒸し暑さには往生した。


 何ゆえウスターのクラーク大学に滞在したかといえば、コロンビア大学に提出すべく準備していた博士論文の下書きのみならず実験データや講義ノートまで火事で失い、已む無く勉学の延長を強いられていた。ところが、頼みのコロンビアのウッドワード博士(Robert Simpson Woodward)が病を得て、私は他所のフェローを得る必要が出てきた。幸いにして、ジェームズ博士(William James)のハーヴァード大学Ph.D. を取得し、ジョンズ・ホプキンズ大学を経て、新設のクラーク大学学長となったホール博士(G. Stanley Hall)の知遇を得たため、1年間世話になることができた。研究はウェブスター博士(Arthur Webster)の許で続けたが、その際、初めて心臓病と診断された。
 学長のホール博士はハーヴァードで心理学を専攻する傍ら、大学のチャペルで説教もする牧師でもあったそうだ。クラーク大学では日本からの成瀬仁蔵日本女子大学校長を、またジョンズ・ホプキンズ大学では元良勇次郎帝大教授の世話をされたと聞いた。


 この1年はまことに辛かった。学業も不慮の事故で思うようにならないばかりか、体が思うようにならなかった。間もなく、エール大学の熱物理学のギッブス博士(Joshua Willard Gibbs)の門を直接叩いて受け入れてもらったが、何と2−3箇月の後に博士は急逝されてしまった。1903年の春だった。
 そうこうするうち、ウッドワード博士が健康を回復されて、私もコロンビアに戻り博士論文を提出できたのは、万に一つの幸と神に感謝した。論文の中身は、「地表付近大気の夜間冷却に関する数学的理論」である。しかも、ウッドワード博士の推薦でアッベ博士のところで働くうちに、ウッドワード博士がワシントンのカーネギー研究所所長として赴任された。『ニューヨーク・タイムズ』に1904年12月14日付で報じられたそのときの新聞紙は今も大事にとっている。あれは本当に嬉しかった。
 ほどなく恩師ウッドワード博士の媒酌でアンと私は結婚し、新婚の私達はウッドワード博士や上司で親類のアッベ博士のご自宅に二人して遊びに行くのが慣わしとなった。両博士も若い私達を迎えると心から歓迎してくれ、お忙しいのにいつも子供のようになって大喜びで交わってくださった。とても懐かしい。


 その当時、1905年から1906年6月末に帰国するまでは、嬉しいことが重なったことと、ワシントンの気候が幸いして、病気のことはまったく忘れていた。そのときは、アッベ博士の実弟ボブ博士(Robert Abbe)の診断さえ受けてはいなかったのだ。今、10年ぶりの東京の梅雨を体験し、非常な体の疲れと全身のむくみに襲われている。辛い。