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Dr. Marks のまだ題のない小説(その13)

DrMarks2008-01-18


ポトマック河畔に桜が咲くのはしばらく先のことである(1912年以降)。ワシントンの桜は、東京と同じ頃に咲くのが何ともよい。4月の暑かったり寒かったりするのも東京とそっくりだ。弘前に住んだことがあるが、5月の連休にならないと桜は咲かない。一昨年の11月にワシントンに行ったときは、東京の11月よりもっと寒く感じたが、卯月の春は東京に似ているのかもしれない。

ワシントンの桜はほとんどがソメイヨシノで素晴らしいが、我が町LAは暑すぎてこの品種は駄目らしい。桜というよりは小さなバラのような桜(バラ科だから仕方がないか)が一斉に咲き乱れる水上公園があることはある。しかも、満開になるのは如月から弥生だぜ、ここは鹿児島か?

(桜を贈ったのは尾崎行雄だとして、技術的にサポートしたのは後の帝大総長で忘れられた女流小説家清水紫琴の旦那だよね。そういえば、紫琴の孫=東京天文台長を直接見たことがある。会ったというのではなくて。写真はワシントンの桜。)

当時の給料(月給)と漱石の社会観について

中学の教師が40−50円なのは、漱石の小説などでよく知られている。アメリカの大学で学生がどのくらい必要かは、この主人公の書いたものや、この主人公の恩師が奨学金の推薦状を書いた中にある。それによれば、月20ドルあれば十分らしい。当時、1ドルは2円だから月40円で、教師の給料くらいは必要だったから、やはり貧乏人の自費留学は難しい。この主人公は、帝大教授になる前の五島清太郎博士が青山学院で教えていた時分に米国から500ドル(千円)の奨学金を得たことに発奮して、自分もアメリカに向かったと書いている。(彼は最初の奨学金オハイオ州立大学から得た。)

ところで、漱石の『野分』に出てくる貧乏文学士高柳周作が翻訳で得ていた金はたったの月20円だったことはご存知だろう。彼はその額に嘆いている。しかし、当時、同じ年頃の東京市街電気鉄道の職員の給料は、更に低い月15円ほどだった。偉そうなことを言っていたが、車夫や芸者を本音で馬鹿にし続けたインテリ階層漱石の認識の限界がここにもある。

 明けて明治40年(1907年)の4月から、妻も私も教場に立つことになって急に忙しくなった。アンは初めて見た桜の花の素晴らしさに感動し、「嗚呼、この悲しくも麗しき花をいかでか華盛頓府(Washington, D.C.)に移さむ」などと嘆じているので、忙しい中、お城の周りの桜を見て回ったり、上野の観桜会にも出かけた。上野の観桜会では桜の絵葉書を何枚も買い求め、ワシントンの親類といわず友人といわず送っていた。ワシントン府では、今頃、ジパングは金はなくても美しい花があると評判であろう。後に知ったが、各界の貴婦人方の間で、「サクラ」が話題になったのは確かなようだ。


 アメリカにいる間に、東京ではいつの間にか存外にトラムカー(ハイカラ電車)が発達し、一々高い車(人力車)を利用しなくてもよくなった。なんでも京都での電車の評判がよく、東京にも広まったようだ。そこで、住む家は何も職場に近くなくてもよかろうと考えていたら、青山に異人の使っていた家を幸いにも借りることができ安堵した。


 陸大に近いのは難儀だが、いざというときには青山学院が近いことと、家を出ればすぐに電車に乗れ、そのままアンが三宅坂に一本で行けることは、大変な重宝であった。海城中学はそこから目と鼻の先である。もっとも、
「どんな人間が乗り合わせるかわからぬものを、何も好き好んで電車などにはせずに、車にしなさい」と言ったのだが、妻はなかなかの頑固者で「はい」とは言わず、電車で通い通している。
 彼女の授業は、教科書などを用いず、自分で授業計画を立て、すべて英語でなすもので、古賀校長はすこぶる喜んでいるようだ。私は当初は四谷見附で乗り換えて飯田橋に行き、そこから砲兵工科学校の脇を通って歩いたが、程なく伝通院前から大塚高台の高師の門前に停車場ができたので楽になり、持病の心の臓にはよかった。むしろ、それゆえに運動不足となってしまった観がある。
 電車がこれだけ便利になると、おそらく、車夫や馬車屋は大弱りであろうが、これもお国のためか。昨年、ビール会社同様、分立しておった電気鉄道会社も合併したようである。お陰で運賃値上げをめぐって一騒動あったようだが、鉄道が細切れであっては不便なので致し方ない。


 陸大でもそうだったが、日本の学校は土曜日にも出勤せざるをえない。アンにはそれが不満のようだ。もっとも非常勤のアンは週に3日出かけるだけで、土曜もなにもない。要するに、私と過ごす時間が足りなく、一人で過ごす時間が多いということである。
 私たちは美土代町の兄の紹介で下女を雇った。本当は下女など要らぬほどにアンは小まめに働く女なのだが、兄は、
「高等師範教授が異人の奥方に下女なしで家事をさせているというのは都合が悪かろう」とか言いながら、兄嫁の縁戚の娘を引き取らせるつもりだったようだ。いずれはどこかの女学校に行って学びたいというこの娘にも、アンは英語だけでなく親切にさまざまなことを教えていた。


「喜世(キヨ)と申します」と挨拶したきり俯いて顔を上げないので、
「お国はどちらですか」と聞いてみた。
霞ヶ浦の出島です」と答えてもらっても、実のところはよくはわからない。
「いつ兄の家に来たのですか」
「4月1日の筑波山のお下がりの日に出てきました。母さんが旅立ちには縁起がいいと言うもので」
「あの辺りには鉄道が通っていますね」
「ええ、先年、実家の近くの神立に駅ができましたので、土浦まで出ずとも上野までは楽に来ることができました」
「上野までは?」
「はい、そこからは神田美土代町までは交番で聞きながら歩きました」
「上野から神田須田町まで、確か電車があるのじゃないかね」
「その通りですが、車中で銭を落としたらしく、歩かざるをえませんでした」
「なるほど、それは気の毒に」
「いくつにおなりかな」
「十五です」と言うなり、また視線を床に下ろす。


 不思議なことに妻と下女の喜世はウマが合っただけでなく、お互いが語学の才を発揮しだした。なにしろ喜世はまだ十五の娘で頭も柔らかいのであろうが、妻のアンまで急速な進歩があった。アンはお構いなしに喜世に英語で話しかける、喜世は喜世で日本語で答える。そのうちに双方が相手方の言語をかなり理解するようになり、口真似で受け答えするようになった。
 喜世は言葉の面だけではなくなかなか賢い子で、アンの教えるさまざまな家事や手芸にも通じるようになり、アンが海城に教えに行く際も書生のように付きしたがって行くようになっていた。