Comments by Dr Marks

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牛に引かれて善光寺

聖書にはほふり場に引かれる牛はいても善光寺に連れて行くような牛は出てこない。当たり前だが、今回、小谷野先生に誘われて野上弥生子の孫の本を買うことになった。いや、この本だけなら買わないが、ちょうど買う本が重なったのでついでに注文した。(10ドルくらいの本なのにアマゾン日本は送料手数料で30ドル掛かり、計40ドルで本末転倒。そこで他の高い本と抱き合わせで買うことにしているのだが、数冊になっても送料手数料は1冊と同じだ。しかし、それにしても高い。日本の郵便事情か。)

それはともかく、読む前から何も言わんが、この本は聖書については素人の本として書いたということで読むことにした。素人だっていいんだよ。玄人のふりをしなければ。本なんて、書ける人は何を書いたっていい。私なんか小説書いてるんだから。しかも毎回解説つきだからね。時代背景などの解説だけならいいが、「小説論」までときどき書いちゃう。実は、「小説論」ではなくて「言い訳」を書いているのにすぎないのかもしれない。しかし、諸君、モーパッサンだってPierre et Jean では、この小説の前に、長々と自説を述べまくっているのは知ってるね。真似してるわけ。

さて、何となく寝そびれているし、新しい仕事に取り掛かるのが億劫でブログなんか書いている。本当は本家での話題だが、ここで始まった話なのでここに書く。

長谷川三千子著『バベルの謎−ヤハウィストの冒険』が届けられる前に、多少、聖書学の立場から(旧約聖書は専門ではないが神学部の基礎で教えるくらいならタイショウフだよ)一種の解説というか、誤解があったらいけないので素人様方に警告しておく。ネット程度でも「ヤハウィスト」というのは旧約聖書の律法5書ないし律法6書の著者(あるいは著者群)であるということはわかるだろう。しかし、これはあくまでも仮説であることに留意しなければならない。

この仮説はいわゆる文献仮説(documentary hypothesis)の一つで、新約聖書福音書に関係する「Q資料」などと同じ仮説にすぎない。現在、Q資料仮説を覆す研究が始まっているように、ヤハウェスト仮説(以下、「J資料」と略す)も、当初の興奮から見れば、現在は相当に落ち着いているというか、この仮説そのものの分化したサブ仮説がたくさんあり(扱っている学者の数ほど)、すっきりと割り切れるものではない。

Yahwist と綴るべきなのにYでなくJなのは、ドイツ語では Jahwist であるからだが、それはドイツの神学者ヴェルハウゼン(Julius Wellhausen)がドイツ語で広めたという経緯があるからにすぎない。ここでは詳論は避けるが、J資料のほかにE、D、Pの各資料が仮定されている。つまり、律法5書あるいは律法6書(創世記から数えて初めのモーセ5書 Pentateuchないし6書 Hexateuch)は、J、E、D、Pの4種の著者(著者群)による共同執筆だとの仮説である。ただし、創世記1巻にだけ適用できると考える学者もいる。

共同執筆といっても、誰か統括する編集者がいて一斉に書くということではなく、歴史の中で、次々に書き足していって現在の形になったという仮設である。どうしてこの仮説が合理的であるとみなされるかといえば、文体や内容が一貫せず、パッチワークであると考えたほうがすっきりすると考える学者がいるというわけだ。

しかし、当然ながら、そのように分けてみたところで、まだすっきりしないと考える人は出てくるわけで、Rudolf Sumend などはJ1 というJの中でも古いものを抽出するし、Otto Eissfeldt はL、R. H. Pfeiffer はSなんて言い出して、Jの中がまた細分化する始末である。普通、それほどの専門家でなければ、何がJかは、Martin Noth (マーティン・ノートゥ)のÜberlieferungsgeschichte des Pentateuch モーセ5書伝承の歴史)という本に載っているリストを参照するはずだ。この本の英語訳などはあるが、日本語訳もあるかもしれない。もっとも、この本の中でも議論の余地のある箇所は、そのように注記されている。

長谷川三千子著『バベルの謎−ヤハウィストの冒険』のバベルとは「バベルの塔」のことであるが、この箇所(創世記10:10、11:1−9)はもちろんJ資料とみなされている部分である。バベルの塔の話(創世記11章1−9節)は面白いから、もしまだなら手許の聖書を開いてみてはいかがか。なお、先年話題になった映画の Babel は、バベル(べにアクセント)と発音するのがいいのだが、アナウンサーは英語風にベイブルと発音するので興ざめだった記憶がある。

以上のように、J資料そのものが多様な仮説であり、学問的には「冒険」なんてことにはならないのだが(いや、「冒険」だからいいのかな)、素人の本は素人の本でいいんじゃないの。読むのが楽しみじゃ。しかし、学問的でないものに「なんとか文化賞」なんて上げていいのかね。あっ、和辻そのものが学問的でないからいいのか。いいんだ、いいんだ、学術書だけが本じゃない。それに、おいらの小説だって、小説だよ。モーパッサンがそう言ってんだから。もう、明日朝早いから寝るね。バイバイ。