Comments by Dr Marks

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世間知らずの田舎者ないしアフォ娘の世迷言

コメントへのコメント:以下の記事を書いてから、寝ている間にいろいろなコメントをいただいた。皆様に感謝いたします。私へのコメントというよりは、コメントをくださる方々同士の会話があり、私が埒外であることもありましたが、少し私も参加させていただきます。また、私からの補足という意味もあります。
 まず、「オゼウ様」ですが、もともと正仮名は意識しておらず、今回の文庫本同様に、もはや正仮名の話ではありません。昔、日本の漫画で読んだ表現で「アフォ娘」のアフォのようなものです。黒人英語でMをNで発音したりする類ですよ。
 言葉と土地の話ですね。まともな頭ならわけがわからないはずです。著者長谷川先生が「語りそこね」ているからです。
 語りそこねは方々にあります。もっとも、語りそこねというよりは、明らかな誤りに基づく勘違いが多い。例えば、創世記2章4節a(←最後のaは普通は使わないが、原文で読む場合に節の中を細分化する場合に使う記号。この節なら、a,b に二分が可能で、a はその前半部)を論じて、日本語訳(新共同訳のことだろうが)は「これが天地創造の由来である」とあるが、原文に即せば「これらが天と地の創造された時の由来である」などとわけのわからないことを言う(文庫本82ページ)。「これらが」なら以下に続き、「これ」なら記述したことのまとめと言いたいのだろうが舌足らずでよくわからない。少なくとも、原文などわかっている印は見られない。単に、英語などでは後者に訳されているというだけである。だから、何も長谷川氏の特許ではなく、欽定訳(King James version)でさえ、そうなのだ。この勘違いはどこから起こったか。彼女は、創世記2:4a が直前のP資料の続きと思っている。違う。直前のP資料と創世記2:4b との繋ぎである。そもそも「これらはトルドート(תולדות)である」という toldot とは、<天地>の「原初史」などではなく、<人類>の原初史を語っている。だから、「天と地が造られたときにトルドート(人類起源)はこうである」として、アダムとイヴの話に入るわけだ。少なくとも、英独仏の現代語訳でも見れば generations という類の言葉が入っていることに気づくだろうに。
 「教師!」って言われましても、たった一つのことでも精密な議論をしていけば以上のようになるので、こんな本をまともに書評はできないわけです。時間の無駄というわけは、そういうことです。方法論が間違っていて、基本的知識も中学生並なら、先は読まずに普通はペケですよ。私は読みましたけど。
 日本の聖書学者は何も言わないでしょう。ついて来れない聖書学者が何も言わないのはともかく、本格的な旧約学者はまともに相手にはしないはずです。旧約学者でない私でさえ、笑って見過ごせばいいでしょう、と思います。アメリカだってどこだって、似たような素人の本は蔓延しています。しかし、賞なんて上げませんけどね。そういえば梅原ねえ、ありゃペテン師で、顔までペテン師だ。『ダビンチコード』がもらうのはお金だけです。ああ裏山師、ナンチャッテ。
 ところで、ブリューゲルの絵に関するプロローグとエピローグがありましたが、ご専門の庵主様のお見立てはどうなのでしょうか。庵主様、お忙しいならお気になさらずに、このコメントは無視してください。


随分と早く本が着いたのですぐに目を通した。長谷川三千子の『バベルの謎』だ。書評はしない。する価値なし。人生は短い。意味のない本まで書評している時間はない。世間知らずのオゼウ様に付き合っている時間などないのだ。どこがって? すべて。That’s all.

初めは、普通の書評をするつもりでいた。きちんと要約をしながらね。それで鉛筆で間違いなどを書き込みながら数時間たったら空しくなってきた。なんでこんなことをオイラはしているのって。それで、あまりにも空しいので一服して「文庫版あとがき」を読んでみたら納得。やはり世間知らずの田舎者(←田舎の方々ごめん、これって figurative use なの)のオゼウ様だったのね。ゲラで推敲する馬鹿がいるか! 本がどういうコストで出来上がるか頭使え。(ていうか、素人仕事によくあることで、勘違いで書いちゃったのがぞろぞろ出てきちゃったのだろうね。だから、どうしても直さなきゃいけない。)

世間知らずは、あらゆることに無知蒙昧であることをさらけ出す。「従来の神学者」って誰のこと。教義にとらわれて学問している神学者なんて今日日いるのか? あなたの頭の中のステレオタイプでしょう、それって。それは想像力の欠如とか、石頭の独りよがりということよ。何々、G. von Rad が Jahwist は一人だと言ったって? ああ、言ったよ。それは「編集者」としてのことであって、現代的な「作者」のことではない。Jahwist(Yahwist)というのは普通単数で書いても著者群のことであって、特定できる個人がいるわけではない。だから、「伝承」の裏の真の「作者」を探すなどという目論見は、方法論として初めから挫折しているし、事実の取り違いがありすぎる。ごくごく常識の範囲だと思うけど、日本聖書協会の「定訳」って何? 「定訳」なんて日本語の聖書があるわけないでしょ。「口語訳」のこと? 「新共同訳」のこと? それとも?

素人は素人らしい面白い視点があるかと思っていたが、私の大嫌いな素人が玄人の真似をして pretend する典型的な本だったのでがっかりだ。ろくにわかりもしないヘブル語など使って引用するなら、Gunkel, Rad, Westermann 以外の人も読んでほしかった。この3人は確かによいが、Westermann 以外は古すぎるし、この3人以外に引用した本は皆ゴミ(piece of garbage)じゃないか。しかしまあ、あの「原初史」って言葉は嫌だねえ。読んだ人は何のことだかわかったかい? あの日本語はひどいよ。たぶん、これは著者の新語ではなく、そのように訳した日本人の神学者が先にいるのだろうから、彼女の責任ではないかもしれないが、独創ぶったりするなら自分で訳せよ。妙に術語(technical term)ぶっているところが猿真似なんだな。Urgeschichte のことなら、英米人は簡単に pre-history と言っているよ。ほらね、本当は簡単でしょう。なのに「原初史」だって。日本語乱すなよな

こんな本を読むくらいなら(しかも買っちゃった、グスン)、一昨年出た Farewell to the Yahwist? を買ってもう一度読んだほうがよかった。『さらばヤーウィスト?』といっても、クエスチョンマーク付きだから、すぐにおさらばするわけではないが、断然ためになる。少なくとも土俵上で相撲を取らない長谷川先生のおしゃべりよりは意味がある。あっ、女はまだ土俵に上るの駄目なの?
しかしまあ、日本の出版「文化」の程度がまたわかった。小谷野先生に恨み言も申しませんし、私が勝手に買ったのであって、だいたい先生には責任がない。むしろ、この機会に前々から欲しかった恩師の一人の本(こりゃ本物のギリシア哲学者が書いた本物の学術書)をついでに買えたので嬉しい。これからそれを読んで、懐かしい先生に手紙を書くんだ。何か気持ちの悪い少女小説読んで不良っぽい文章書いちゃったんで口直し。