Comments by Dr Marks

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ア コメント オン コメンツ

ちょっとコメントします。めずらしく(失礼)南都さんが心にかかるコメントをしていますので何か言っておきたいと思ったからです。

今年もやたらにユダヤ人の顔が目立つアカデミー賞のテレビを横目で見ながら、夕食後の一時にこの自分のブログと猫猫先生のブログとを覗いてみました。明日は朝早くから十号線を東に向かい砂漠の町に出かけますのであまりブログを覗いてばかりいることはできないと思いながら見ると、そんな時にかぎってコメントしたくなる記事やレスポンスしたくなるコメントが来るものです。なお、明日はなるべく5時前に戻って、竹田先生の本を取ってこようと思っています。竹田先生の本は特別の書庫に入っていますので5時前でなければ受け取れないからです。何となく気がせきます。

南都さんのコメントのうち、(1)「語学あるいは速読」と(2)「哲学を志すことと人生」の二つに問題を絞ります。私のコメントはいずれも簡単ですが、とりあえずのレスポンスにしては長くなるので本記事としたわけです。

(1)「語学あるいは速読」に関してですが、小谷野先生もお書きのように、本を読むのに速読できるということは、すでにその分野に相当の知識の蓄積があるということです。先生が「本に対する読み方は、読者の段数によって変わるといえよう」とおっしゃっている意味はそうだと思います。日本でもアメリカでもよく速読法の本が出回っているが、あれはみんな嘘の本であると言ってもいいでしょう。自分の理解が容易な分野であれば、ページを開けたときに重要な用語(キーワード)が自然に飛び込んできてあっという間に読み終わるものなのです。「術」などあるわけがありません。一つ一つの過去の蓄積が速読に繋がっただけなのです。しかし、それがもしも才能というなら、教えることなど不可能ですから、ますます「術」などないことになるでしょう。
才能といえば、才能は、残念ながら、存在します。ただし、努力ないし蓄積なしに才能は花開きませんが、努力だけで才能に勝るという幻想をいだいていると不幸になります。私は、身内のある兄弟の兄にギターを教えました。この兄はその弟にギターを教えました。しかし、この兄はあるとき気づいたことがあって突然ギターを止めました。弟には音楽の才能があるが、自分にはなく、幾ら努力しても弟にはかなわないと悟ったのです。実際に、この弟は各弦と各フレットの位置が自然に頭に入っていて、自由に指が動くのです。ピアノの鍵盤上で自由に音を拾っていたことをギターに自然に適用してしまうのです。そのうち習ったことのないベースも教会でピンチヒッターで弾きだすほど苦労がないのです。(因みに私もピアノくらい弾けます。ただし、右手だけとか左手だけならいいのですが、左右がなかなか揃いません。←なんだ、弾けないということじゃないか!)
語学にも才能があります。自分の音楽才能のなさに気づいたあの兄のように、私は私に語学の才能がないことに気づいています。どうも聞くことと話すことはとくに駄目なようです。しかし、逆のことにも気づきました。何語であれ、書き言葉の微妙な差について判断する能力は、ある程度ありそうだということです。それから、前段の結論とは別ですが、人には才能が花開くまでに時間的差があるということです。痩せ馬の先走りとは別で、ある程度の時間を経ると、急に花開く人がいます。語学の場合、そのようなケースが多いように感じています。(それを信じて、今年は細君とフランス語会話のクラスに出ようかと考えています。ホントかなー。いや、クラスに出るのは本当。しかし、ホントに花開く?)

(2))「哲学を志すことと人生」についてですが、昔、哲学教室は第二外国語学科と言われたほど外国語が大事な専攻科目でした。従って、哲学が人気な時代は、教養から専門に進学する際に少なくとも外国語2種について一定の成績でないと哲学教室が受け入れなかったと聞きます。だから、哲学の大学院を出るとつぶしがきくと言われた時代がありました。なぜか?哲学も教えられるが、英独仏を教えたりギリシア語やラテン語を教えられるからですよ。(今でもそうかもしれません。哲学が専門なのに語学教師。日本では逆に仏文専攻なのに哲学教えたりしてしっちゃかめっちゃかなのかもしれませんが。)神学もそうです。やはり、第二外国語学科。普通、神学および聖書学で(本物の)博士号を取るまでには、現代3か国語、古典3か国語がミニマムの要件になります。だから、神学(聖書学)教師は若いときに語学教師をした人が多い。どうして若いときか。なんとなく、「語学教師は格下」の評価があるからかもしれません。もっとも、語学教師大好きの神学者も少なくないのですが、残念ながら大方は専門の口が見つかると語学など教えなくなるのです。
それでは、いよいよ哲学を志す人は何故哲学かという問題ですが、何故なのか本当はわかりません。時代によっても違うかもしれません。だから、大雑把になりますが、私のような昔の哲学専攻者に限っていえば、やはり自分の人生観と自分のおかれている世界観に深い興味を抱いて志したことは間違いがないようです。(私は16歳までは物理学か法学志望でしたが、急に哲学志望に変わりました。)私の哲学の同級生は15人いましたが、ほとんどの人は18歳前後の純粋な気持ちで、期待を抱いて、哲学の門を叩いたのです。しかし、学んでいるうちに自分の哲学のイメージと違っていたり、学びの苦労から哲学に興味を失う人も出ました。逆に、学んでいるうちに本当の哲学の学びが何かわかってきてますます熱心になる人も出てくるから不思議です。(私はどちらかというと落ちこぼれで、一旦は哲学の学びから外れ、他の学問をしたり金儲けをしたりしながら現在に至っています。私の知る限り、15人のうち、現在3人が教職に就いていて、2人は博士の学位を持っているようです。残念ながら、故人もいます。)
知的興味だけで哲学を続けている人は少ない気がします。それだけでは続けることができません。たとえ知的興味だけだとしても、その知的興味は生きること(人生観)と社会や宇宙(世界観)に向いているからにほかならないでしょう。ただ、そのような感情(意思)をあからさまに外に出して哲学する人は極めて少ないと思います。極端な話ですが、神学を志す人の99%は、神を崇め、伝道や隣人への愛を目的として学んでいるのですが、日常的に顔にも体にも「私はキリストの愛を伝えるがために学んでいるのです」と書いている人は稀です。(そして、稀なるそんな人は大した学びをしていないことのほうが多いと思います。)
16歳でどうして哲学に転じたかというと、マルクス主義でした。社会にとても興味があったのです。そして、愚かにも、それが自分の生き方や心の問題も解決してくれると勘違いしていました。大学に入ってからの哲学教室では、心の問題の点で仏教にも興味を抱き、『正法眼蔵』などの演習にも参加しました。しかし、(主として家庭上の)色々な問題から哲学を一時的に離れ、働きながら社会学歴史学の分野にも首を突っ込んだりしましたが、最終的には比較宗教学、聖書学、神学の世界に入り、部分的に哲学に戻った形になりました。しかし、哲学を専門とするつもりはありません。南都さんと似ていて、私の残された人生の中で「哲学」が自分のすることではないと悟っています。ただ、哲学は私の人生の中で神学についで長くコミットしてきた分野ですので、多少の(知的?)興味があるわけです。哲学と神学の狭間で研究と思索をされた竹田先生には、従って(人生論的?)興味が湧いたわけです。ただ、私は研究史という見方が身に付いていますので、竹田先生の時代を考えると、ある程度なんとなく著作の内容の予想はついてしまいます。その予想通りであるか、意外性があるか、今(知的と人生論的)興味を深く抱いているところです。楽しみです。(最も興味のある竹田先生の本は1週間前に注文したので間もなく届くでしょう。あれはペーパーバックになったので、25ドルで売れるのでしょうね。小説にも興味はありますが、今のところ入手が難しいので日本に行ったときになんとかするつもりです。)