Comments by Dr Marks

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「おなじみの物語」にある<おなじみとは言えない物語>について

あーあ、やっぱりサービスしてるよ。コメントに対する私のレスも続けてしていますから見ていただければありがたい。(サービス、サービスと言って、要するに教師的習性だな。恩着せがましく言ってるが、自分が楽しんでるだけじゃないか。)

私もたまには怒る。どうして怒ったかあがるまさんならおわかりだろうから、これ以上は言わない。しかし、他の人にも警告だ。私の書いたことについて私はこう思うという程度のことなら、私は返事はしない。それなら、そういう人は、私に言うのではなく、著者長谷川先生に尋ねればいいことであって、批評した私とそれを読んだ第三者が議論してどうするつもりかと言いたい。故人となった人の著作について議論するならまだしも、この件については、私は著者本人にしか答えないからそのつもりでいてもらいたい。どうしても、私の書いたことに納得できなければ、私はすでに書いたのであるから、納得できない人が私の書いたものを著者に送りつけるなりして教えを請えばいいではないか。私はこんなくだらないことでこれ以上只働きはしない

竹田先生の本は、竹田先生の日本語の「小説」も着いてから(もちろん読んでから)紹介します。目的は紹介なので英文で本家に書きますが、部分的にはこの分家にも書きます。少し、時間がかかりそうですから、私自身の小説の続きを先に発表します。今朝はLAマラソンで大変なんですよ。(我が家から50メートルのところがルートです。私のところは二筋違う住宅街ですが、ハリウッドの撮影所なども近いためか今タイプしている窓の前の通りも前面駐車禁止で、角には白バイの警官が頑張っています。今日は午前の教会には行かないからいいけれど、おまわりさんが勝手にドライヴウェーにコーンを置いて家から車が出れないようになっています。例年の見物兼応援は「下駄」はいて出かければいいから車は不要。)
ひゃー、驚いた。我が家の前の通りが身障者用のルートになった!初めてのことだ、目の前を選手が通る!知らなかった!違った!先頭者集団も来た!我が家の前は本ルート?!写真は後で本家に載せる載せた。
こちら→http://markwaterman.blogspot.com/2008/03/what-surprise-my-street-became-route-of.html

熱く長谷川三千子の『バベルの謎』の書評を期待していた人なら、「おなじみの物語」というのが、その本の第1章であることに気づくだろう。私はこの本は聖書学者の立場からは書評する価値がないと言った。聖書学者の端くれには違いないが、私は旧約聖書学者ではない。しかし、思うに、旧約聖書学者であるならばなおさらのこと、こんな本は笑って見過ごすだけであろう。(私もそうしたい。)

先に、方法論上の誤りを指摘した際に、あがるま氏から教師の立場からは初めが誤りなら門前払いかと言われてしまったが、それだけではない。この本は、方法論どころか素材の初めから出鱈目なのだ。今日はそのことだけにするが、私が書けば書くほど長谷川氏の化けの皮がはがれてしまうフィクション性が明らかになるだろう。もちろん彼女は、この本を「一つの冒険小説、あるいは一つのミステリーとして楽しんでいただければ幸いである」(まえがき)と記すが、大学教授がフィクションを書いているのにノンフィクションを書いていると見せかけて、「文化」の付くような賞をもらうというのも裸の王様の世界のようで、不思議な国「文化国」日本が見えてくる。歴史小説を書いているときは、”Fact meets fiction.” という言い回しが頭に浮かぶが(私の小説の続きちょっと待ってね)、 彼女の場合は捻じ曲げた「事実」を発端としていたのである。

(我々の常識では、通常、書評はレターサイズにシングルスペースで5枚前後だが、長いものは数十ページにわたるもので詳細を極める。そこで、何度も言うように、そのような価値は少なくとも私にとってはない本だから、ここでは元祖傍観者君の求めに応じて「素材の出鱈目」の紹介にとどめる。しかし、旧約聖書にもヘブル語にも馴染みのない人には多少の役には立つと信じるので、そのくらいのサービスはしてもいいと考えた。決して、元祖傍観者君に恩を売るつもりではない。私は、もともとサービス精神旺盛だから―我が細君の親譲りの途方もないサービス精神には負けるが―元祖傍観者君がグノーシスジーサスセミナーの小父さん方に興味があるならお付き合いするつもりでいる。)

多少、聖書に通じた人なら、長谷川が第一章「おなじみの物語」に示したバベルの塔の引用文(文庫版P27)が奇妙であることに気づくと思う。しかし、ヘブル語に通じていないと(私はヘブル語は不得意ではあるが長谷川より、多分はるかに、ましである)どこが奇妙かも、どこで著者長谷川が嘘をついているかもわからずに読み進むだろう。重大な嘘は11章6節の読みなのだが、1節からいきなりこけおどしをするのが姑息である。

普通、我々聖書学者は、一般の論文でも既存の現代語訳を利用するし、使用した訳の version を必ず明記する。また、議論の都合上、自分で訳した部分があればその旨も明記する。しかるに、長谷川は、この奇妙な訳がどこから出てきたのか自分で訳したのかどこにも記していない。それなのに次のような訳で、いきなり読者を驚かすのである。

長谷川の訳(出典不明):「全地は一つことば、一つの用語であった。」

普通の日本語訳と比べよう。なお、この他にもさまざまな合同訳、個人訳があるが前に書いたように長谷川の言うところの「定訳」など存在しない。

日本聖書協会口語訳:「全地は同じ発音、同じ言葉であった。」
同 新共同訳:「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」

長谷川は、後に(P33)「ことば」と「用語」にそれぞれ「サファー」と「デバリーム」という仮名を振っている。あたかもヘブル語が重要であるかのように。しかし、それにしても「一つの用語であった」とはなんたる日本語なのか。以下に、何ゆえ「用語」という訳語でなければならないかの説明はない。ただ、難しそうな言葉に納得できないながらも、何か「ありがたきこと」が語られていると畏れかしこんだのが大方の読者ではなかろうか。

しかし、本当は、何も意味はないのである。彼女が「サファー」としたのは「שפה」であり、ヘブル語の女性名詞で「言葉」を意味する単数名詞である。「デバリーム」としたのも「ダバール(דבר)」という同じく「言葉」を意味する男性名詞の複数形「דבר'ם」であるにすぎない。この際、両語の使用例の差異などはほとんど意味をなさない。

「一つことば」=「一つ用語」ということであって、ユダヤ文学に限らず出現する Synonymous Parallelism (同義並列)という修辞技法により、同じことを別の言い方で繰り返しているにすぎない。従って、「用語」などというなじみのない言葉で脅かす必要はない。従来の訳のほうがずっとわかりやすいはずである。

多分、小説家(とくに冒険小説家!)とすれば、センセーショナルな書き出しとなるのであろうが、問題は、本書全体に関わる6節の意識的誤訳(あるいは無知的勝手解釈)である。また、通常の訳と比較してみよう。

長谷川訳:「見よ、彼らは一つ民でみなが一つことばである。これを彼らはなし始めたのだ。これから彼らの企ててあたわぬことはなくなろう。」

口語訳:「言われた、『民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。…』」

新共同訳:「言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことを始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。…』」

長谷川の訳が奇妙なことはひとまずおいても、問題は、彼女が「これを彼らはなし始めたのだ」をわざと難しく解釈しようとしていることだ。普通の読者なら、何を彼らがしようとしているのか単純明快に「塔の建築だろう」と答えるはずなのに、彼女はわからないと言う。ついに彼女は、この物語を勝手に「袋小路」に放り投げてから、自分勝手な議論へと進み、一番長い11章「ジグラトの物語」という近東の古譚の中学生好みの寄せ集めへと導くことになる。(Gordon J. Wenham という高名な旧約学者が面白いことを言っていた。Jの作者のすべてにとって、近東に数限りなくあるジクラトからすれば、例えば『エヌマエリシュ』を読んでいなくとも、塔の話の大筋は理解していただろう。ちょうど今日、ダーウィンの『種の起源』を読んだことがなくても、誰でもその内容がわかるようなものである。)

実はこの話は、創世記全体から見れば、神なしには何もしえない弱き人間の総まとめの章に組み込まれたもので、創世記1章から3章に示された幸せな世界(原初状態)ではない。だから、長谷川が誤解(曲解)しているように、神が良しとした世界などではありえない。長い引用になるので略すがP35の終わりの段落で長谷川が「奇妙」と言っていること自体が奇妙なのであり、ここでも彼女のヘブル語がおかしい。

なお、長谷川は「彼らはなし始めたのだ」の「なし」に「アソート」と仮名を振っている。これは原語で書くと「צשות」であるが「עשה」の連用不定詞(infinitive construct)なので、英語などの訳語に惑わされて「する」とか「なす」にしないで「造る」でも本当はかまわないのだ。要するに、塔を造り始めたことなんだよ、諸君。あーあ、こんなことやってたら前に書いたように本当にきりがないよ。私の場合は、どこぞの誰かさんのように罵詈雑言とか思わせぶりな一言批評じゃなくて細かな議論が始まるわけだから、これくらいで勘弁してね。これ以上のことは、金を払ってもらわなければ解説しない。これでもプロだからね。

結論:長谷川は、「おなじみの物語」をわざわざ<おなじみでない物語>に作り変えて推理遊びをしただけ。本人から言いたいことがあったら言ってくればいい。