Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

米国カトリック司教協議会を覗く―聖職者不足対策へのベネ16の答をめぐって

今日はあちこち飛び回る日。ガートルード婆さんのところにもついでに寄った。中年独身男である末の息子のマイケルが週に一度様子を見に来るだけなので、「おい、まだ生きてるか」と顔を見せてやる。お陰でもう一箇所の欲張った予定分はキャンセル。

さて、婆さんのドアをノックしても(呼び鈴はなくて、昔風の鉄のドアノッカーをガンガン)出てこない。ようやく出てきたが、それもそのはず、耳が遠いので極大の音響でテレビを観ている。観ていたのは昨日ワシントンDCで行われた、ベネ16を迎えての米国カトリック司教協議会(United States Conference of Catholic Bishops)だった。生意気にCNNのケーブルテレビで観ている。無理もない。大昔のスミス・カレッジを出ているが、ろくな教養はなく、シェークスピアをところどころ諳んじている程度だから、テレビ漬けの毎日だ。(成功したユダヤ人移民2世の末娘だからスミス・カレッジに入れてもらっただけで、気立てはいいが頭はよくない。)

生意気にケーブルテレビと言ったのは、我が家にはケーブルテレビなどないからだ。やせ我慢ではないが、だいたい普通のチャンネルでも見る時間がないから、ケーブルテレビなどいらない。しかし、今回のように、普通のニューズでは飛ばされる内容を詳しく観るチョイスがあることは確かに便利だと思った。

婆さんは、正式には改革派のユダヤ教徒だが、葬式仏教徒がいるように葬式ユダヤ教徒で、本当は信仰なんかどうでもいい。スミス・カレッジに入る前からカトリックの女学校だったから、ベネ16にも興味があるのだろう。夫のルイスが、改革派ながら、まだましなユダヤ教徒だったから、彼の葬式はユダヤ教式でしたが、下手すりゃキリスト教式でも頼みかねない婆さんだ。おまけになぜか民主党員で、かつ息子のマイケルの影響でクリントンは嫌いだとぬかす。(じゃ、共和党のマケインならいったい何と言うつもりだろう。)

ともかく、会議の終り近かったが、何人かの司教が代わる代わる Holy Father 、すなわちパパ、ベネ16に助言を賜るという形式だ。あらかじめ提出された質問ないし提議に応答する形なので、メモを見ながらではあるが、ときどき冗談をまじえて立派な英語で話していた。私がテレビの前に腰を落ち着けたのは、最近の米国での聖職者不足に対する質問が始まる前であった。正確には、聖職志願者の減少である。確かに、某カトリックの神学校では、在籍者がここ10年で5分の1くらいに激減した。(他に、現在、米国のカトリック神父の16%は外国人助っ人というが、必ずしも米国が必要としたものとは思われない。実際にフィリピン人司祭が多いのは、米国が必要としたというよりは、彼らが米国を志願したからであると私は見る。)

しかし、米国といわず最近といわず、カトリックの聖職志願者が減少していることは、ここ半世紀の周知の事実であって、本当は新しい問題ではない。だから、ベネ16の基本的な意見は、あまりあせるなということで、具体的な打開策は出さなかった。この質問に対する彼の最初の言葉は、「誰でも聖職に就くように選ばれているわけでも祝福されているわけでもない」という、ある意味では身も蓋もないものであったが、私は同感だ。確かに、カトリックの家庭の中で、志願者が生まれるように各自が信仰生活を整える以外によい手はないであろう。

よく、カトリックの聖職者不足と一緒に、聖職者の独身主義の撤廃と聖職者による児童への性的虐待が関連づけられるが、まったくの誤解である。確かに、貧困状態の中で、デモシカ聖職者が食うために司祭になったことがある。少し優秀な村の貧しい子でも只で教育を受け、一生食いはぐれることがないからだ。しかし、こんな低級な動機の者は、結局のところ独身生活などは送れず、中には児童への性的虐待に走る者も出てくるわけだ。

まことに「誰でも聖職に就くように選ばれているわけでも祝福されているわけでもない」わけで、独身生活を楽しめる者が神の召しを受け命を捧げるのでなければカトリックの聖職者になどなるべきではない。しかし、そのように選ばれているかどうかは志願時点では未知であるから、積極的に(あるいは言葉は悪いが、安直に)志願者を受け入れる姿勢をとってもいいのではないかとも思う。

たまたま私の周囲には、一定期間司祭をしながら後に結婚して司祭職を解かれる者が意外に多いが、私はそれでも構わないと思っている。先に、聖職者不足というよりは聖職志願者の減少と言い直したように、聖職者が絶対的に不足だとは思わない。司祭職を解かれた者も、ほとんどはカトリックの信仰を放棄したわけではないので、私の友人たちもカトリック系の大学で教えたり、教会で指導的立場にあることに変わりはない。

アメリカでは、カテキズム(入信志願者への教育)も普通の信徒が受け持つことが多いくらいだから、結婚した元司祭が教会のさまざまな働きに関わってもらうなら、本人にとっても教会にとっても喜ばしいことだ。(なお、配偶者と死別した後なら、司祭職に戻れる可能性はある。)司祭が何でもやろうとしたり、司祭に何でもやらせようとするから聖職者不足になるのであって、司祭を助ける者がたくさんいたら司祭の数は重要ではない。

私自身はプロテスタントの生臭坊主だが、それを言えば、プロテスタントは皆生臭坊主のはずだ。とりわけ、自分がプロテスタントの牧師として建てた教会だから息子を牧師にして後を継がせるなどという話を聞くと、生臭坊主どころか信仰そのものが腐っているとしか言えない。教会員の一人一人に心から気を配るどころか、妻子の世話で一杯で、時には悪妻娶って教会そのものを潰すことさえある。(細君の父親は救世軍の士官すなわち牧師で、後に救世軍を離れて独立の教会を司牧したが、息子たちの誰にもその教会を継がせなかった。息子や娘の夫に牧師や神学者がいないわけではないが、世襲を嫌ったことは、身内ながら、プロテスタントの中では稀なる見識と評価している。)

なるほど、妻子にかまける苦労を体験してこそ教会員の苦しみを理解できる聖職者になるのだという考えもあろう。ペテロ自身が妻帯者で、いつも妻を同道したとも言われている。しかし実際は、妻子ある身で自分の命を投げ出すことはできない。むしろ、それは無責任であり、神の喜ばれることではないだろう。また、ファミリービジネスとして夫婦相和して一生懸命長い年月掛けて建て上げ大きくした教会なら、長男も二男も三男も皆牧師に仕立て上げて跡を継がせたい気持ちもわからないわけではない。余りにも余りにも人間的で俗的な心情ではあるが。

しかし、それは違う。私は、カトリック聖職者が、今なお独身であるのを義務づけていることに敬意を表したい。そして、この恩寵は誰にでも与えられているものではないと、心から教皇ベネディクト16世に同意する。