Comments by Dr Marks

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コメントにならないコメント−6 (抱腹絶倒、ジジェクを楽しんだ一日)+ 多分使える鈴木氏の日本語訳

いろいろな予定が突然抜けて、今日一日はほとんど細君と一緒だった。パサデナからグレンデールの旧街道 Route 66 を彼女の運転でドライヴして、家ではテレビとDVDも一緒に観ることになった。ドライヴ中はデイヴィド・ケイス(David Case)朗読のCD『ドンキホーテ』を流しながら英国風発音とケイス先生の役によって声音を変える巧みさも堪能したものだ。本日のテレビといったら、やはりレイカーズとセルティクスのプレイオフ戦となる。普段は観ないNBLバスケットではあるが、昨日、からくもレイカーズが勝つところを第四セットから観ていたので、本日は夕食をとりながら全部観てしまった。結果は、勝っていたのに負け。

さて、DVDだが、所収の幾つかの論文を読むためにスラヴォイ・ジジェク(Slavoj Zizek)編集の Lacan: The Silent Partners (2006)という本と、同じくジジェク自身の著作 The Puppet and the Dwarf: The Perverse Core of Christianity (2003)といういやらしい題名といやらしい著者の写真が裏に印刷された本を借り出す際、W.W. Norton の入門シリーズ小冊子の How to Read Lacan(2006)と一緒に借りた The Reality of the Virtual (2007)というものだ。

1時間ちょっとに編集されたDVDだが、まぁ汗をかきながらときどきドイツ語に変わってしまうような奇妙な英語で意味不明のことを熱弁する。細君と一緒に抱腹絶倒、見ながら飲んでいたお茶を噴出しそうになってしまった。意味不明なのは奇妙な英語のせいもあるし、DVD編集のせいもあるかもしれないが、The Puppet and the Dwarf [操り人形と侏儒:キリスト教の性倒錯的核心]という意味不明本と同じで、言いたいことが言葉になっていない。第一、共産ユーゴスラヴィアで育った団塊の世代のスターリニストだから、聖書そのものの基本的な理解がない。How to Read Lacan [ラカンの読み方]のほうは面白い入門書に仕上がっているが、ラカン(Jacques Lacan)そのものがゴミだからね。

DVDは2003年のロンドンでの収録でイラク戦争や日系のジョンズホプキンズ大学教授Francis Fukuyamaも話題に登場するものだが、あまりにも英語が面白いのでYouTubeMaterialism and Theology という大学講座を拾ってみた。2007年の収録で少し英語がうまくなったからかご覧のとおり何とかわかる。DVDはやはり言いたいことが言葉にならず手だけ派手に振り回していた。(しかし、どうも論点がねー、それにこの人やたらに仕草が面白いけど、私の「コメントにならないコメント」みたいで、世の中の何の役に立つんだろ、不思議。まっ、本が売れればいいのかな。)

http://www.youtube.com/watch?v=G9S3vvPe9IM&feature=user (←これは全体の8分の1で、全部聞くと1時間半になります。)

私が仮訳したのとは違うが、ほとんど日本語訳があるようだね。しかし、あの英語は日本語になるのか?ポカン(・_・)。

ポカンとしたばかりでは失礼なので、日本語訳はどうなっているのかネットで調べてみた。ある方(名前は出しませんが、お陰でわかった、サンキョ)が How to Read Lacan の原著の9から12ページに該当するところのそのまた一部分をブログで引用していたのでチェック(←意地悪じゃないよ、単なる興味と責任から)してみた。この方がブログで正確に引用したとすると、結論としてこの訳は使える。訳者は鈴木晶という方で、訳書名は『ラカンはこう読め!』(2008)←出版社のネーミングね、多分。訳書では27から31ページに該当するそのまた一部分。

ただ、ある程度致し方はないことだが、1300字程度の中で、慣用句 for that matter を正確に訳さなかったり(この慣用句はまさに「正確に申せば」という意味なのだが、適当に類推したのか「〜でもいいのだが」としていた)、Freedom を Liberalism と取り違えていたり(ケアレスミス?)、長い形容節があると面倒くさがって文章を切って訳す癖があるらしく、ありもしない「一対一で」という句を挿入したり、

話をしているとき、私は、私以外の「小文字の他者」である人たちと交流している決して単なる一「小文字の他者」(個人)であるわけではない。(拙訳)
原文:While talking, I am never merely a 'small other' (individual) interacting with other 'small others':

と丁寧に訳せばよいところを、前の挿入があるからか、

私が誰かと話をしているとき、たんなる「小文字の他者」(個人)が他の「小文字の他者」と二人で話しているわけではない。(鈴木訳)

というように、「小文字の他者」が二人しかいないかのように訳して、ダイナミックな人間関係が薄れている。日本語では単複概念などどうでもいいと、どうしても言うのなら構いはしないことではあるが。

その他は、頭の混乱した著者ジジェクがあいまいな代名詞でごまかしたり、実体だと言ったり実体でないと言ったりする矛盾した記述も丁寧に補足しており、原文にあたらなくても使える訳文だと思った。ほんの一部の検証だったが、少なくとも鈴木晶氏の訳なら推薦できるだろう。
同じユーゴスラヴィアから来て、同じ世代だが、エール大学教授のヴォルフ(Miroslav Volf)先輩はドイツ語も英語も完璧だねー。えらい違いだ。もっとも、ジジェクスロヴェニア人でヴォルフ先輩はクロアチア人。でも、ジジェクのほうがちょっと有名なのも不思議。ポカン(・_・)。