Comments by Dr Marks

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コメントにならないコメント−12 (猫猫先生、やはり村上陽一郎がおかしい)

あのですね。ルルスは小谷野先生も修正されたのでいいのですが、最後の古代人最初の中世人と歴史家に言われているアウグスティヌスの『告白』なら皆様の手近にあると思うんですけどね、彼のこの本をちらちら見ただけでもローマのキケロなどはもちろんギリシアの哲学者はエピキュロスから始まってプラトン派まで出てくるではありませんか。この本を学僧なら中世を通じて読んだだろうし、更にアドヴァンストな学僧ならギリシア哲学の内容も知っているからアラビア語の宝の山に狂喜したというわけですよ。14−17世紀ルネッサンス説がハスキンズに打ち負かされたのはとっくの昔、そろそろハスキンズの12世紀ルネッサンス説もお蔵にね。(←「あのですね」から始まるこの前書は翌日に追加したものです。誰でも確認できる簡単なことである一例を述べました。)

快挙、連邦最高裁様、ワシントンDCの銃所持の禁止は違憲!

サンフランシスコ市も違憲で訴えられる。SFって町は困った町なんだ。

コメントにならないコメント−10で紹介したアパートが1295ドルを消して1395ドルに書き換えていた。強気な大家。強欲大家。おーや、おや!


例えば、現存するアリストテレスの著作などはほとんど弟子たちの手になる講義ノートと言っていいわけで、ギリシア語テキストであろうがラテン訳であろうがシリア訳であろうがアラビア訳であろうが、本質的な問題はない。専門家はそれではすまないことはわかるが。と、またまた標題のコメントとは違う運びとなってすまない。

今朝起きたら、小谷野先生の猫が村上陽一郎の本に噛み付いていた(あるいはジャレついていた)村上陽一郎の本からの

「敗走したイスラム教徒が残したアラビア語書物を大司教が発見。読み解くと、どうやら古代にギリシアという時代があり、哲人たちが書を著していたらしいことが明らかになる」

がその通りなら(小谷野先生の引用だから疑ってはいないが)、何とまあ、お調子者と思ってしまう。村上先生が書いたのではなく、誰かお若い学生さんが教室でふざけている村上先生の言いっぷりをノートして本にでもしたのかと不思議でならない。

それに、これは小谷野先生のパラフレーズだが、村上陽一郎の本にあった内容に間違いはないであろう。

>つまりこの大司教、本文によればライムンドゥス(ルルス)は、古代にギリシアが存在したことすら知らなかったということになるのだ。

村上先生、「ライムンドゥス(ルルス)」とは誰を指されるのか。小谷野先生が読んでいる本は手許にないので、間違っているかもしれないが予想してみる。もっとも可能性のあるのは、Raymond Lullあるいは Ramon Llull またはRaimundus Lullus (←あっ、今気づいたが、これ3人じゃなくて一人です。英語、仏語、ラテン語で表記した同じ人。生没年1233-1315頃)だが、彼が大司教であったことは聞いたことがない(私が無知なだけかもしれませんが。)

なお、マインツ大司教聖ルルスは時代が違うので別人だが、もう一人、このライムンドゥスと同時代の聖ライムンドゥス(Raymond of Penafort, 1185-1275)がいる。この人物は実際にバルセロナ大司教だったりするし、ライムンドゥス(ルルス)と面識がある。面識があるどころか、このライムンドゥス(ルルス)に、マヨルカ島に留まってアラビア語と神学を学べ、と指示した大司教である。

大司教自身はアラビア語ができたかどうかはわからないが、裕福な(well-to-do)家系のライムンドゥス(ルルス)は30歳からアラビア語マヨルカ島で9年間学ぶ。彼はイスラム教徒のキリスト教への改宗を勧める宣教師となるが、大司教であったためしはないはずだ。村上先生あるいはノートを取った学生がこの同名の大司教アラビア語使いの宣教師を混同したのであろうか。

さて、本当にギリシアギリシア哲学も知らなかったのであろうか。大司教でないライムンドゥス(ルルス)なら可能性がなくもない。しかし、小谷野先生の記述のとおり、アカデミアがなくなってからも、ギリシア語圏ということもあって、ビザンチンには神学者の間にギリシア哲学は受け継がれていた。

しかし、それとは別に、正統派キリスト教徒から東(アルメニア、シリア、イラン、更にエジプトなど)に逃れた人たちがアリストテレスなどをそれぞれの言葉に訳したのであるが、アッバース朝イスラムの自由平等主義的雰囲気の中でアラビア語にも訳され研究された。このアラビア語からのギリシア哲学がイベリア半島コルドバ生まれのアヴェロエス(Averroes = Ibn Rushd, 1126-1198)の研究成果を通じて西洋世界に復活したことも事実である。(かつて私が本家に書いたポルフィリウスIsagoge などもそうだ。)

アリストテレス哲学は創立されて間もない(といっても形が整った数十年後の13世紀)のパリ大学でも講じられるようになった。初めは多少の迫害もあったが、周知のごとく中世哲学の中心に据えられていく。しかし、アラビア語使いの宣教者ライムンドゥス(ルルス)は、正統な教育を受けたことのない語学屋だった。アヴェロエス派との論争でもむちゃくちゃだったので、身内すなわち西方の教会関係者から「少しはギリシア哲学を勉強したら」と忠告されたとの言い伝えもあるらしい。

ところで、ライムンドゥス(ルルス)は決して武闘派の脳足りんではない。むしろイスラム教やユダヤ教に好感も抱く、頭の柔らかい人だったようだ。しかし、その後アリストテレスを学んだかどうかは知らない。そして、大司教であったことはない。

そして、そして、アラビア人に教えられるまで西洋がギリシア哲学を知らなかったなんて、寓話だよ、ウソッピー