Comments by Dr Marks

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コメントにならないコメント−11 (小説が売れるのに法則などないーフィッツジェラルドのThe Great Gatsbyの場合)

ちょっと長すぎるエントリーだったな。ごめん。コメントにならないコメントのくせに。

夏のトンボが車の前を横切った。一瞬のことで写真など撮る余裕はない。
朝、我が家に来るリスの一匹が、モッキングバードのような小さな鳥に苛められていた。
小鳥は羽を広げて威嚇したり口ばしでつつくが、リスは細い電線の上なので仕方なく逃げ回る。
余りに可笑しいので写真を撮るどころではなかった。

Lavish と well-to-do の違いは、と聞けば、違いがわからないアメリカの学生などいない。しかし、その違いの差というのは、学生によって違う。その違いは、これらの言葉で具体的にどれだけのことをイメージできるかの違いであって、結局はそれぞれの生い立ちや読書習慣がイメージの差となって現れると言える。

何だ、標題の話と違うじゃないかと言われそうだが、実はブログ仲間の求道士様との問答でこの小説が話題になり、その際、(古代史ではあるが)歴史をかじった者の、そのまた端くれとしての私は、どうしても小説のリアリティーというか枝葉末節に目が行ってしまう、という問題からの絡みなのだ。ただし、これは、私も幾つか小説を読んだことのある村上春樹の翻訳とも、野崎孝の翻訳とも関係がない。私はどちらの翻訳も持っていない。それらに興味もない。

原文が必要な人はこのサイトで無料で読めるから参照あれ(http://gutenberg.net.au/ebooks02/0200041h.html)。これはオーストラリアのグーテンベルクだ。残念ながらアメリカでは著作権保護期間を長くするという馬鹿げたことをしてしまったので、まだフリーではない。話を戻そう。(日本も著作権保護期間を延ばすような馬鹿げたことをしないように望む。)

Lavish にはまた luxurious と違って、浪費とか背徳のにおいもあるが、いい意味での気前よさもあるし、同じ豪華でもどこか人間臭い。また、この言葉は中英語(Middle English)であり、語源的には湯水のごとくぶちまけることから来ている。

さて、むしろ判然とせずに問題なのは well-to-do だ。手近のなるべく新しい和英辞書をとってみると「裕福な」とあるのみだが、アメリカの標準的な辞書であるメリアム・ウェブスターによると「十分な貯え以上の」とある。しかし、これでも何をもって十分かはわからない。少なくとも、その日暮らしの私などより上のクラスの裕福な状態を言うのであろう。

また、同辞書によると、この言葉の初出は1825年となっているから、lavish が貴族の時代で well-to-do は小市民の時代かと考えるのも面白い。できてからおよそ100年後、 well-to-do は、語り手ニックの家族の階級を表わす言葉に使われたわけである。フィッツジェラルドが使ったこの言葉は、余りにも時代が下った今日、どの程度にわれわれは見積もったらいいのであろうか。

もちろん、この小説の醍醐味は、ニックの well-to-do ごときではなく、主人公らのlavish な生活と奇想天外な恋愛物語であろうから、ハリウッドの三流映画並みの馬鹿げた小説が好きな人々からは、何だお前は枝葉末節を、とお叱りを受けるかもしれない。しかし、小説などたかが「小」の「説」なのだから、好悪はそれぞれの勝手でよかろう。第一、私は素人だから、小説は好悪でしか語れない。

ともかく私は、この小説が発行された頃で言えば、この小説を自由に買えるくらいの階級が、ちょうど well-to-do ではなかったかと思っている。当時、小説の値段は、確かに25セント本もあったが、普通は1ドル前後であった。少し厚ければ1ドル50セントであるが、この薄い小説は2ドルだった。(求道士様がグーテンベルクで見て、原文の意外な短さに驚いていたが、日本語に翻訳すると、ほとんどの本が意外に長くなってしまうものである。)

こんな薄い小説が2ドルなのは、This Side of Paradise (1920) である程度の成功を収めた強欲フィッツジェラルドが、印税を吹っかけたからかもしれないし、大恐慌一歩手前の大戦景気を当て込んだスクリブナー社の賭けだったのかもしれないが、文学史家ではないので私は知らない。誰か教えて欲しい。

この本は、帳簿記録によれば、初版20,870部売り出され、爆発的にというわけでは決してなかったが、結局は完売した。そこで早速3,000部増刷されたわけであるが、15年後、フィッツジェラルドが死ぬときまでに売り切れてはいない。つまり、15年かかっても23,870は売れなかったのである。しかし、2万冊も売れるようなものは、確かに売れた小説と言って構わないだろう。

さて、2ドルの本が買えるのは庶民か well-to-do かだが、庶民だって買う気があれば買うわけだから、何らかの例えで考えるしかなかろう。学者は高くても本を買う。学位論文を書く頃から、私でさえ100ドル、200ドルでも、図書館で手に入らないとか、座右に置く必要があれば買ったが、well-to-do ではないので相当に無理をしたものだ。

牛肉を例えにする。1920年代当時の牛肉は、この本の代金である2ドルあれば、ニューヨークで5ポンド、ロスアンジェルスで8ポンド買えた。今でも多少そうだが、ニューヨークのほうが物価が高い。いくらアメリカ人でも、普通の家庭なら一家4−5人で1ポンドの肉があれば、立派な夕食の食卓を整えることができた。つまり、この規模の家庭なら、ニューヨークでは5日分の夕食代だし、ロスアンジェルスでは8日分の夕食代になる。

なお、ロスアンジェルスの人間がこの本を求めようとすると、2ドルでは買えなかった。つまり、2ドルは本の正味であり、本屋の手数料や郵送料が掛かるから、物価の安いロスアンジェルスにいても本を購入して読むのは、貧乏人には難しい楽しみであった。実は、牛肉つまり食料の経費が家計に占める割合を現在と比較して補正する必要もある。大まかに言って、エンゲル係数は当時のほうがはるかに高いから、現在の牛肉の価格と単純に比較してはいけない。要するに、昔の牛肉は高く、本は更に高かった。

スクリブナーが2000年に、この小説の75周年記念の廉価本を出した。その解説によると、どうやら2000年までに、この小説はアメリカ版だけで75年間に1千万部売れたらしい。つまり、同じ英語版でも外国で出版した版や外国語に訳された翻訳版は一切含まずに1千万部売れたということだ。フィッツジェラルドの生前に売れた数とは、まったく比較にならない。彼が死んだ後の60年間で大売れに売れたことになる。

火がついたのは戦後だ。1957年には学生版が出たが、世界中の若者が活字に飢え書物を求めていた頃で、生活の安定と共に、初めて well-to-do でない者が自分の物として手に入れることができるようになったのである。面白いことに、所得が増え、消費物資が溢れてきたのに、ハードカバー小説の値段が、この頃でも2ドル台が多かった。かくして、ようやくwell-to-do でない者も自分で評判の新刊が買えるようになったのである。

この夏休みも、多くの若者たちがアメリカでも日本でも The Great Gatsby を読むだろう。ベーパーバックスなら10ドル以下で買えるし、日本でも春樹訳なら千円以下だそうだ。安くなったから読まれるのであろうか。もちろん、そうではない。自分自身の現実には到底起こり得ないことを実現してくれる夢の物語だから有頂天になる。そして、この小説が大ブレークした1950年代には、ひょっとしたら夢が夢でなくなるかもしれないと錯覚し始めてきたのかもしれない。なにしろ、語り手ニックの well-to-do の程度さえ、今ではわからなくなってきているのだから。

小説が流行するのに法則などない。名編集者Maxwell Perkins のような伯楽がついたからといって成功するとは限らない。第一、この小説が大ブレークしたのは彼の死後である。もっとも、パーキンズがいなければ、この小説が陽の目を見たかどうかはわからない。そういう一つ一つの要因は数えられる。また、私も経験があるが、新聞の全面広告かそれに近い扱いで金をかけて宣伝した本は、ある程度必ず売れる。

しかし、やはり、小説が流行するのに法則などない、と改めて言っておこう。そして、この小説が売れた要因の一つに、初版後一世代を経て、リアリティーが消滅したことを挙げておこう。つまり、この小説の社会的背景や経済的な状況がまだまだ生々しく感じられる頃には、馬鹿馬鹿しくて一部の者しか喜んで読みはしなかったのだ。一部の者とは、ハーバード出の編集者パーキンズやエール出の語り手ニックのようなwell-to-do の階層だ。

最後に蛇足を。現在のハーバード出やエール出、更には近頃の東大出をwell-to-do と思うのは時代錯誤だよ。