Comments by Dr Marks

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ブログ・シャバートにもかかわらず―A Note about 七十人訳聖書をわざわざ日本語に訳す意義

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この中で「エル・シャッダイ(אל שדי)」と叫んでいるのは「万能の神」という意味

しばしば言及するように、今のところ猫猫先生こと小谷野敦先生のブログを通じて日本を覗いているようなものである。そのブログで2日分を読んだところ、標題のようなことを考えた次第である。

小谷野先生は、作家の秦恒平について書いていたのだが、この名前から私は反射的に、現在多摩美術大学の教授でドロプシー大学で学ばれた秦剛平先生を思い出した。この先生はエウセビウスの『教会史』やヨセフスの著作を日本語に訳して紹介している。日本語では読めなかった古典なので、とてもよい仕事をした先生だ。ところが、近年、『七十人訳聖書』(旧約聖書の古代のギリシア語訳)を日本語に訳していると聞いて不思議に思っている。

何が不思議かは後で述べることにして、猫猫先生のもう一つの記事の一部を引用する。先生の著書『童貞放浪記』が映画化される現場を先生が訪ねた記事のところである。 

世の中には酔狂な人もいるものだ。平凡社ライブラリーで「アーサー・ウェイリー源氏物語」を書店で見つけて、一瞬目が点、続いて、ああ洋書の入手の仕方が分からない人のために和書で英文のものを出したのかと思って手にとったら、日本語訳だった・・・・・・。

自国の古典文学を他国の人が訳したものをさらに自国語に戻すなんて、そんなことをするのは日本人だけだろうなあ。それともバートン版アラビアン・ナイトアラビア語にしたものとかあるんだろうか。ラフカディオ・ハーンにもそういうものがあって、変な国民だと思っていたが・・・・・。

第一印象としては、秦剛平先生の今回の訳業にも言えることのように思えた。まず、七十人訳聖書というのは、ほとんど皆さんの持っているヘブル語マソラ版テキストを基にした旧約聖書と同じなのだ。私は秦先生の現物は見ていないが(機会があったら見たい、というか、日本語アマゾンはページ見本をネットでは見ることができないのは、購読に当たって不便)、案の定、ヘブル語テキストと異なるところを強調して印刷してあるだけなそうな。

それならば、むしろ、その部分だけを訳して本にすればよかったのではないかと思っている。もちろん解説文もあるそうだが、それはそれで独立して出版できるはず。大部分が同じなら異なる部分だけでいいはずだ。もっとも、全文、自分の言葉で訳してみたかったのなら仕方がない。(それでも、買う立場からすれば、随分と無駄に思える。モーセ五書だけでも1万数千円らしい! 全巻ほんとうに出るのかい?)

本来、七十人訳を云々するとは、そのギリシア語テキストとヘブル語テキストとを直接対照できる人にとって意味のある作業である。従って、「英語訳の七十人訳でさえ何種類もあるではないか」といっても、英語訳の場合はギリシア語原文を併記している、というか英語訳はおまけ。

私は七十人訳に当たるときは、ドイツの聖書学者アルフリート・ラールフス(ドイツ語読み、Alfred Rahlfs)校訂版のCD版を普段使う。これはコンピュータで単語検索できるほか、ヘブル語本文と上下に対照できるので、とても便利かつ安価。また、イギリスのブレントゥン卿(Lancelot C. L. Brenton)の復刻版も30ドル程度で簡単に入手でき、英語の対照訳がついて、しかも旧約続編まで全部入っているのだ。

どうも、出版営業妨害のような内容になってしまったが、本当に不思議だと思っている。出版社は事前に専門家に相談しないのかなあ。私に相談すればよかったのに。七十人訳の現代語訳ねぇ、不思議だ。出版社さん、見本を送ってくれないかな。もっと、ちゃんと紹介して差し上げます。

あとがき:実は少しは気になって、上を書いてから、この本の書評を日本アマゾンで見た。私と同趣旨のことを書いている方がいて驚いたというか、やはり、さもありなん、と思った次第。この人は第2巻以降は買わないって。そうだよね。I can't blame him (her?).