Comments by Dr Marks

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ブログ・シャバートにもかかわらず―あ〜あ、また書いちゃった

いいえ、野次馬になって、どこぞに書き付けてきたことではない。今日読んだ論文があまりにもおかしいので、おすそ分け。「聖書のおんな」シリーズとは別のおまけだ。論文の著者は、David J. Zucker というPh.D. の学位を持つユダヤ教のラビだが、内容は「サラが見たもの」という題で創世記21:9−10を扱ったものである。("What Sarah Saw: Envisioning Genesis 21:9-10,” Jewish Bible Quarterly 36/1(2008):54-62)

この聖書の箇所は、妾のエジプト女ハガル(ユダヤ教の伝承ではファラオの娘)の子イシュマエルがサラの子イサクを「からかっている」(新共同訳)場面であり、それを見たサラが二人の子の父親であるアブラハムに子供たちを一緒にしてくれるな(つまり、ハガルとイシュマエルを家から追い出せ)と訴えているところである。

ここで「からかう(ツァハク、צחק)」と訳されている動詞は「笑う」という意味では、まさしくサラの息子の名前イサク(イツァハク)の基となった言葉である。このとき文字通りにとればイシュマエルはアブラハム86歳のときの子、イサクは100歳のときの子だから、14歳くらいイシュマエルが年長である。(Dr. Marks の変な2割引説なら11歳くらい年上だ。)

さあ、どんなからかいをサラは見たのか。読者はどう思うか。論文の著者によると二つの異なった見方が可能だ。一つはイシュマエルがイサクを意地悪くいじめている図、二つ目はイシュマエルが兄として弟イサクをかわいがっている図だ。他には、そのどちらにもつかない見方もあるかもしれない。例えば、性的ないたずらでいじめているのか、かわいがっているのか、こりゃわからんというものだ。

実は、この動詞は、イサクが妻のリベカと「戯れていた」(新共同訳)場面でも使われている(26:8)。これを見たアビメレクが二人を兄妹ではなく夫婦と看破した場面だから、この戯れは性的な戯れである。男同士で少年と幼児だから男色(pederasty)というよりは「お医者さんごっこ」かもしれない。やはり、いじめかもしれない。いじめと取れば、第一の見方だ。

第二の見方はどうであろうか。経験のある人は多いかもしれないが、異母兄弟というのは他人が思うほど仲が悪いということはない。たった二人の兄弟で、しかもイシュマエルは十分な年上(10歳以上)であれば、いじめるということのほうがリアリティーに欠けるかもしれない。一緒に遊びながら、イシュマエルとしては小さな弟イサクがかわいいし、イサクはイサクで頼もしいお兄ちゃんイシュマエルを慕ったはずである。

それならば、サラは何も文句はないのではないだろうか。いや、実はこれこそ問題なのだ。族母サラとしてはイサクがイシュマエルを慕ってもらっては困るのだ。今日はここまでにしよう。今日はブログ・シャバートのはずだから。それに、本編で話すべきことに立ち入ってしまう。ともかく、アブラハムの家を追い出されたからといってイシュマエルとイサクが永久に仲たがいしたと思ってはならない。イシュマエルはイシュマエルで神に祝福され守られて栄え、父アブラハムが亡くなったときは、イサクと兄弟仲よく一緒に父をマクペラの洞穴に葬ったではないか(25:9参照)。(アラブ人とユダヤ人だって元々仲良しだったんだよ。誰だ、今のような状況に追いやったのは。)