Comments by Dr Marks

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翻訳天国のほんにゃら論争

とくに信頼できて面白い日本での話題は小谷野先生のブログや著作を通して得ている関係上、結局のところ、猫猫先生の後追い的になっている。その関連から某ブログで知ったのだが、日本では他人の翻訳に瑕疵を見つけてそれを話題にするだけでなく、他人の翻訳糾弾本まで出ているそうだ。そのブログの主は、誤訳の本を出しているからといって出版社まで批難している。

いやー、恐れ入りました。アメリカじゃそこまで熱くはならないね。我々の分野(聖書学)のように多言語を操るのが普通という専門家は特別としても、もし翻訳が嫌なら自分で原語で読めばいいことで、他人の翻訳を云々しても始まらないというのが一般的な心情だ。誤訳が本当であるにしろ、どんな手足れの翻訳者でも誤訳は時としてありうることだから寛容だ。だから、せいぜい内輪や私的ブログでミスをからかう程度である。

翻訳というのは本来次善の策である。"Traduttori traditori"(イタリア語で、翻訳者たちは裏切者)という認識が根底にあって、その上で翻訳を利用するわけではないのか。だから、原語では読めないものは、翻訳の存在が心底嬉しい。感謝したくなる。恐らく、あまりよくない翻訳もあるのであろうが、とにかく便利である。また、まったく読めない言語でなくても、読むのが億劫な言語によって書かれていれば、翻訳でさっと目を通せることはやはりありがたい。

自分が翻訳というものをかつて仕事にしていたからの言い訳ではない。実際に翻訳をとことんやってみた者ほど、どのようにやっても原理的に不完全であるという自覚があるからこそ、他人の翻訳を本にしてまで糾弾する者の気持ちがわからないのだ。そんなことを言うのなら、自分で出してから同業者のご意見を伺ってみなさいと言いたい。

日本では西洋語からの翻訳が問題になる経緯がわからないわけではない。西洋語同士ならほとんど機械的に訳しても間違いは少ないのに、文の構造や単語の歴史的背景が違うため困難を極める。とくに専門書を専門家でなくて単なる語学屋が訳したものは目も当てられないことがある。原語と翻訳語の双方の学問的背景に疎いものが翻訳などするべきではない。それは確かだ。しかし、そうだからこそ、日本語への、あるいは日本語からの翻訳は難しく、翻訳結果についての意見も多様になることを認識するべきだ。

そうだ。西洋語同士なら、翻訳者が原文を理解していようがいまいが機械的に訳せて、日本語が絡むと理解していても翻訳語の選択で誤りとされてしまう例を挙げよう。フランス語で "l'état de grace" といえば日本語では「恩寵の国家」、「恩寵の状態」、「猶予の状況」その他さまざまな訳が可能であり、コンテクストに最も合致したものを選ぶのであろうが、どれを選んでもきっと誰かが文句を付けるであろう。しかるに、これを英語に翻訳する者は、十人が十人、単純に "the state of grace" と訳してすましていればいればいいのである。文の構造が違うこと、日本語には関係詞がないこと、慣用句の感覚が違うこと、その他、日本語翻訳の困難さは枚挙に暇がない。