Comments by Dr Marks

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Nemo Vitam Evitabit 誰も生きることを避けることはない(だろう)

成績がどんどん悪くなって、思い出すのも苦々しいラテン語の一文を思い出してみた。動詞の未来形が、一般的真理または単なる言説を表わすというシンタックスで習うもので、未来形に訳しても現在形に訳しても日本語や英語なら正解。誰も生きることを避けないということは、誰も進んで死ぬこと(自殺)などしないということだ。

誰の言葉か知らないが、確かにそうだ。自殺する者などいないというのは、通常の状態での通常の人だ。しかし、セネカは次のように言う。Eripere vitam nemo non homini potest, at nemo mortem(人の命を取り去る*1ことは誰にとっても不可能ではないが、誰も死を取り去ることはできない)。ラテン語など大嫌いながら、この原文の締めは日本語の構造では無理だと思う。コンマの後だけ直訳すると「しかし、誰も死を」というふうに重苦しく締まる。(「しかし、何者たりとも死を」かな。ともかく、nemo は nobody のことで anybody じゃない。ああ、日本語翻訳って難しい。)

我が家の柿が変だ。剪定するつど、柿の性格が変わるという多重人格者のような変な柿だと常々思っていたが、この形は変だよ。真ん中が普通の柿で、左右が奇形の柿だ。右の柿は、リベカがエサウヤコブの双子を宿しているようだ。

この柿 persimmon はゴマなし種なしで、会津の「身知らず柿」のようであるのに、渋は不完全ながら消えていて、さわさなくてもかすかな甘味がある。熟せば熟柿だが、温かい気候ゆえ美味くは感じない。不思議なものだ。やはり、日本に置かなければ柿は柿でないのかもしれない。(成長が早いし、大粒が生るんだがなあ。)

*1:取り去るというより「むしり取る」か。