Comments by Dr Marks

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「自死」について―小谷野先生からのコメントに関連して

私は最近の日本語の語感を失っているし、文化的状況にも疎い。一昨年から日本語のブログサイトに行き始め、昨年の9月下旬からは、このブログを始めた関係上、徐々に近時の日本の文化的状況に接するようになったが、日本の新聞雑誌やテレビ等に接する機会も圧倒的に少ないゆえに、甚だ頓珍漢な理解や物の言い方で失笑あるいは嘲笑を買うこともしばしばだ。

それ故、小谷野敦先生はじめさまざまな方からのコメントで私の不明をご指摘いただくことは感謝だ。一部にはコメント欄への匿名ではなく、ご自分のメールアドレスを開示して直接メールをいただくこともあった。今回、「自死」や「自害」あるいは戦時における「自決」などの「自殺」に関連する語感についても、小谷野先生のコメントではじめて意識した次第である。以下は、小谷野先生(猫猫先生=jun-jun1965)へのレスポンスが長くなったので記事にしたもの。

小谷野先生、「自死」という日本語に関して二度にわたるコメントに感謝します。ご教示の竹内信夫教授のウィキペディアを読みました。この言葉が昔からあったにしろ、 Maurice Pinguetの La mort volontaire au Japon という書物の竹内による日本語訳『自死の日本史』で「自死」なる用語が人口に膾炙した可能性もあることがわかりました。パンゲの書名に関してだけ言えば、英語版の同書は suicide ではなくvoluntary death となっており、一般的な「自殺」という言葉を回避した工夫が窺えます。

しかし、私も小谷野先生のお考えのとおり、現代の人々の「自殺」をことさら「自死」と言い換えて特別の意味を与えようとすることには違和感を覚えます。私自身の理由を簡単に述べさせていただくと、次のとおりです。

私は、私自身の「イエスの墓」研究の過程で、ギリシア・ローマの古代においては意外に自殺が多いことに気づきました。自殺の動機はさまざまです。さまざまであるからこそ、人はその動機に深い関心を持つものですが、近親者あるいは友人知人が自殺した場合は尚更でしょう。

ソクラテスの死にしろ、刑死というよりは自主的に自分を殺したようなものであることは明らかですが、その真意は一筋縄では探究しえないものです。少なくとも、巷に言われる「悪法も法なり」などは、外的事実も内的理由もない俗説であることは、加来彰俊先生の『ソクラテスはなぜ死んだのか』(岩波書店、2004)に明らかですが、加来先生自身、「なにか絶対的なもの」ということで明言は避けられたようです。

私の研究の場合は、刑罰と自殺のコンテクストが多かった関係上、自殺の動機は比較的単純でした。すなわち、極端に酷い刑死苦(例えば、十字架刑)や死後の亡骸に対する侮辱(例えば、埋葬を不可能とする死体損壊ないし放置)の回避のためですが、後者は宗教的苦悩も含まれます。

ソクラテスも含め、このような状況にあった人々の心情には深く共感するものです。しかし、いずれも自殺(suicide=self-killing)であることは、小谷野先生ご指摘のとおりです。また、共感するといっても、我々は彼らの真意がわかったわけではありません。現代の我々が己の耳目で接するものの多くの事例は「不可解」であり、むしろ、自殺からの生還者(救命処置等で命を取り留めた者)の証言によれば心神喪失状態での事故であったことも少なくありません。

もし、自死が自殺を美化するニュアンスで捉えられているとすれば、私は今後使いません。先に述べましたように、古典古代の著作には自殺という言葉や行為を巡ってキケロなども実にさまざまな表現を試みています。それなりに、自殺の行為や自殺者を慮ってのことでしょう。しかし、それは無用なやさしさと思います。

因みに、Anton J. L. van Hooff というオランダの古典学者が From Autothanasia to Suicide (Routledge, 1990) というまさに意味深のタイトルの本を書いていますが、巻末に種々の自殺関連表現(例えば、consciscere sibi mortem など)がリストされています。訳して出版すれば日本では売れそうです。(もう、出てるかもしれませんが。)日本語訳題は、ずばり『自死から自殺へ』。しかし、これで自死がまた流行ったら嫌ですね。ありがとうございました。*1

*1:Autothanasia はラテン語ではなくギリシア語。この語はむしろラテン語で言ったら、consciscere sibi necem(necem←nex)という行為であり、「自害」のほうが適切かもしれない。