Comments by Dr Marks

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「だ・である体」(常体)から「です・ます体(敬体)」に書き直したら(あるいはその逆なら)立派な新訳ですが、何か? 聖書学から「テクスト」とは何か教えてあげよう

また猫猫ウォッチャー話題だが、小谷野先生は次のように書いていた。

最近、古典の新訳が流行っているが、はてみなどうやってやっているのだろう。改めて原書を見ながらぽつぽつとやっているのだろうか。それとも以前の訳をスキャンして、原書と照らし合わせながら直しているのだろうか。短いものならいざ知らず、もし私が『風と共に去りぬ』の新訳をしろと言われたら、絶対この方法をとってしまうと思う。http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090102

私の標題の通りである。自分が語感として気に入らないとか、自分が読んでみて気に入らなければ「新訳」だとか何とかいって出すんでしょうな。いや、そうじゃない、初めから原書と辞書との首っ引きで訳すんだ、なんて言ってる訳者がいたら気をつけたほうがいい。前訳(先行研究)がある場合は、かならず参照するべきなのだ。そのような作業をせずに勝手に訳したような「新訳」なら怪しいものである。

訳すという作業は、通訳とは別な苦労があり、満点を目指すべきではあっても満点には原理的になりえない。とくに語彙も語順もその他の文法も根本的に異なる欧文を日本文に訳す作業は、特別の日本語能力が必要だ。先月の記事で、私はハイデッガーの珍妙な日本語訳について述べたが、思うに独文を直訳式で日本語に置き直しているのが問題なのだ。それは無理というもの。比較的その方法が可能な欧文間の翻訳でも直訳式はうまくいかないのに、日本文に直訳しても、簡単な日用の文章ならまだしも、ハイデッガーの文の意が通るはずがない。

訳者が自分で意味が通ったと思っているのは、独文が訳者の頭の中に存在するからであって、独文が目の前になく、あるいは独文を解さない人の場合は、珍妙な日本文を読んだだけで理解できるはずがない。日本語として反芻し、日本語として十分に練らない限り達意の訳文にはなりえないのだ。しかし、これは言語のグループが全く別であることからの困難である。確かに、仏文からの英文などは、語順も語彙もほとんど直に置き換えれば済むことがある。独文からは多少面倒なことがあるが、ギリシア語やラテン語という古典語からであっても、語順は大きく変わるが、句の要素が置き換え可能なので日本文へ訳すことから比べれば英訳は甚だ楽に感じる。

限りなく新訳が出続ける著作といったら、やはり聖書にかなうものはないだろう。聖書は翻訳の歴史そのものといってもいいくらいだ。古代からさまざまな言語に訳されてきたし、現代でも、例えば英語一つをとっても、さまざまな訳の試みがなされている。しかも、聖書の場合はテクスト(text=本文)の構築というやっかいな問題も絡んでくる。どういうことかというと、聖書には「原書」(original version or original copy or autograph)というのが存在しないからだ。原理的に原書を特定することは不可能と考えられている。ただ、少しでも原書に近い形を再構成しようとする学問分野があり、それを本文批評(textual criticism)という。(史的イエスの探究に当たっても、このような基礎的な問題をないがしろにしてはいけない。)

それでは日本語訳聖書といわれるのはどこから来たのかと不思議に思われるかもしれない。新約聖書を例にとれば、『新共同訳』の場合UBS3(聖書協会世界連盟3版)という「底本」からであると記されている。同じ発音だが決して「定本」ではないから注意してほしい。なお、現在我々学者はUBS3よりも新しいUBS4を用いるが、普通の場合UBS3との違いは気にしなくてもよい。これはNA27と対応するが、私などは手許で一番使うのはぼろぼろになったNA26であるし、日常はまったく問題がない。しかし、学術論文などで引用する場合は版を正確に注記しなければならないことはもちろんである。

UBS4(United Bible Societies 4版)や NA27(Nestle-Aland 27版)のような底本を批判本文(critical text and apparatus)という。これらは欄外にさまざまな異本や読み方の相違ならびに本文として推薦する読み方の理由が書き込まれている。そして既に読者はお気づきと思うが、批判本文はいくつもあるのである。また、古代から(現代風の批判本文とは違うが)さまざまな異本や読み方が存在するが、その一つ一つがテクストである。すると、古代の写本(manuscript)の数だけテクストがあるのかと問われるかもしれない。違う。写本はあくまでも物理的な書き物にすぎない。物理的な写本一つを基にしても、いくつもの(数限りない)テクストが予想される。

例えば、古代のギリシア語は語と語との間に境目がない。コンテクストに合わせて語を分離しながら読まなければならないのだが、(実際はあまり問題はないが)どこで切るかによって意味が異なってくる。日本語の「かねおくれたのむ」を考えればわかる。この手紙(写本)は一つだ。しかし、テクストとしては、「金をくれた。飲む。」なのか「金をくれ。頼む。」なのかの議論が発生することになる。これがすなわちテクストといわれる「解釈作業の産物」だが、テクストという術語についてはボストンでの学会報告でも書いたように、学者によって違った見方もあるから、以上の説明は参考までにとしておく。

そういうわけなのだが、面白いことを「新訳」にからめて言えば、ギリシア語テクストだけが新約聖書の権威なのではない。新約聖書の現在の形に近いという意味で完全なものは3世紀末から4世紀初めの写本群が最古である。そして、そこから遡るギリシア語テクストは、断片的に発掘されたパピルス紙片や古代教父の著作への引用しかない。しかし、結構時代を遡るギリシア語以外のテクスト(すなわちシリア語やアルメニア語などへの翻訳テクスト!)が存在するため、現存ギリシア語テクストと対照して古いギリシア語テクストの再構築を試みることも可能なのだ(ただし、過大な期待はしないほうがいい)。

話を猫猫ウォッチャーに戻せば、原書が著作権フリーの場合、新訳が流行るのは、その原書そのものがよく売れることと新訳する者の人気だけであろう。そこで出版社が手堅くもうけようとしているだけなのだ。小谷野先生ではないが、(私は翻訳そのものに興味がないが)新訳など知的興味に溢れた学者のする仕事ではないような気がする。

結論:小谷野先生に同意。