エジプトのコプト教会に関するショート・ノート
大学院の授業で聖書(特に新約聖書)写本学を取るとすぐにコプト語というのが目に付く。しかも、二つの方言がある。いや、実際はさまざまな方言や時代による違いがあるのだが、聖書学ではサヒド方言(Sahidic)とボハイラ方言(Bohairic)が特に有名なのだ。
新約聖書本文は確かにギリシア語ではあるが、ほぼ完全なギリシア語聖書で現存する最も古いものでも4世紀を更に遡ることはない。それより古いものは断片にすぎない。とすると、4世紀以前の他の言語に訳されたものも研究には大事な資料になってくる。そのような他の言語は、シリア語、アルメニア語、グルジア語などであるが、コプト語も非常に重要である。
コプト語の文字は基本的にはギリシア語が土台になっている。それはコプト語がエジプトの民衆の言葉であったが、アレクサンドリアを中心とした都会では支配者層のギリシア語が公用語であったため、民衆の言葉を書き写すのにギリシア文字を援用したことによる。しかし、文字だけではなく、古来のエジプト語に支配者層の言語であるギリシア語そのものも影響を与えた。
コプト(Coptic)という言葉自体、ギリシア語で「エジプト(エグプティオスaiguptios)」であったものがクプタイオン(kuptaion)となり、コプトとなったものであるから、コプトとはエジプトという意味なのだ。このコプトの人々にキリスト教を最初に伝えた(または最初に司教となった)のは伝承によればマルコである。このマルコは、もちろん、マルコ伝の著者であり、ペテロの通訳、パウロの助手であり、エルサレムの有力なイエスの支援者マリアの息子である。
一世紀以来、七世紀まで、エジプトはキリスト教国であった。神学的な詳細は省略するが、カルケドンの公会議(451年)を認めなかった関係で西方教会(ローマ・カトリックとプロテスタント)やカルケドンを認める他の正教会とも疎遠となったが、基本的には古代の正統なキリスト教を受け継いでいる。
コプト教会はエジプト以外にも存在するが、以上の歴史的な事情を顧みればわかるように、本来エジプトを発祥の地とするキリスト教である。ところが、7世紀になってイスラムが支配するようになるとコプト教会は打撃を受けた。現在でもコプト教会のキリスト教徒はイスラム教徒に次いで多いが、多くて人口の10%程度であると言われている。
本来コプト教会はコプト語を使用するのではあったが、イスラム化によって人々の日常言語がアラブ語(アラビア語)になってしまうと、礼拝もアラブ語になってしまった。もちろん、礼典においてコプト語が使用されることもあるが、それは一部である。教会は残っても、言語は消えようとしている。
エジプト社会は近代国家であることから、信教の自由はあり、制度上はコプト教会も自由を享受できる建前になっている。しかし、実際はイスラム側からの差別や迫害は厳然として存在する。今年になってコプト教会が爆弾テロで20人以上の死者を出したことは記憶に新しかろう。もっとも、ムバラク政権はエジプト内のイスラム教徒によるテロではなく、国外の過激派による犯行であるとも示唆している。
多くのコプト教会の信者は、ムバラク政権後に、イスラム過激派の力が強くなって、迫害が更に強まるのではないかと恐れている。なお、コプト教会キリスト教徒は、エジプト社会では少数派で力が弱いため、清掃作業など底辺で生活を営むものが多い。しかし、信者の中には超がつく裕福な者も少なからずあり、信者同士の関係は必ずしも一枚岩ではない。
(写真は、アメリカはカリフォルニアの平和な某大学キャンパス。余が数日前に写したもの。)