Comments by Dr Marks

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イエスの話した言語(母語と学習言語または外国語):状況証拠のみだが(その2・完)

さて、イエス母語は状況的に最も可能性のあるのがアラム語だとして、他の言語は、すなわち学習言語または外国語の能力はどうであったかということになる。冗談なら、イエスはキリストとして神であるから何語でもございと言えるだろうが、史的イエスの能力は限られているとしか言えない。

しかし、母語が何かというときに状況証拠のみであると断ったが、当然、彼の外国語能力も状況証拠だけである。かつて我が師の一人ロバート・ガンドリー博士が言ったように、誰かが何か主張したとして、多くの場合は、それに積極的に反証することは原則的に無理なのである。その主張の新しい点に学ぶだけである。

もっとも、このテーマが一時はやった前世紀初頭よりは遥かに考古学的データが豊かになったし、近年はトレシャム(Aaron Tresham, 2009)の研究のように、バイリンガルの研究結果を踏まえた考察なども出て、100年前と比べれば格段の進歩であることも確かである。にも拘らず、依然決定的な証拠は出ていない。

まず、アラム語のほかにヘブル語はどうかと問えば、初心者は聖書の中でイエスの言葉がヘブル語だったとあるではないかと答えがちだが、実はその多くは(ヨハネ伝、使徒行伝)アラム語をヘブル語と書いているにすぎない。旧約聖書には「アラム語で」という表現があるが、新約聖書には「アラム語で」という表現がなく、実際にはアラム語の場合でもすべて「ヘブル語で」となっている。

しかし、イエスガリラヤ地方のシナゴーグエルサレムで律法の議論をしたのであれば、ヘブル語の素養がないことのほうが不思議であるし、エルサレムや、その近辺のユダヤ地方は生活言語としてもヘブル語を使用していた集団も確認されているので、アラム語とヘブル語が同系言語であることを加味すれば、説教者であるイエスはヘブル語もできたと考えるのが自然であろう。ただし、アラム語よりもヘブル語を多用したということではない。日本語話者が学習すれば、古文も読めるし短歌も作れるというようなものである。

では、ギリシア語はどうであろうか。ギリシア語は、アレクサンダー大王以来次第に支配者言語としてリンガ・フランカ(国際語)の地位をアラム語から奪ってきたのではあるが、ユダヤ人の日常言語としてはエジプトや小アジア、あるいはイタリアのようには成長しなかった(ギリシア本土はもちろんギリシア語)。パレスチナユダヤ人でギリシア語を母語とするの、はデカポリス、地中海沿岸地域の諸都市などに限られていた。

パレスチナでのギリシア語の流通が更に進んだのは、もちろんティトゥスによるエルサレム攻略の紀元70年以後であるし、全面的にローマが侵攻することになった120年ごろからである。ローマ人はピラト総督の記念碑にもあるように、またイエスの十字架の罪状書き(ヨハネ伝)のように、自分たちの母語であるラテン語を用いたのではあるが、彼らの意向を徹底させるためには、国際語であるギリシア語に頼らざるを得なかったし、ローマの役人、とくに高官はギリシア語の素養があるのが普通だった。

しかし、史実としての保証はないが、イエスの一家はイエスの生誕後しばらくはエジプトに亡命していたのである。イエスが幼少期にギリシア語で遊んでいた可能性もあるし、主に暮らしたガリラヤ地方は交易の通過地点であり、多くがギリシア語も第二言語(外国語としてではあるが)として理解し、かつ話していたのであるから、少なくともイエスも同様であったことは主張しうる。また、大工あるいは石工としては、商売上、ギリシア語が重宝であったはずである。

従って、結論としては、月並みではあるが、イエスアラム語母語としながらも、学習言語あるいは外国語としてヘブル語やギリシア語の素養もあったとするのが最も自然である。西ロスアンジェルスにある余の大好きな日系の店が今年の5月に閉じてしまったが、ここの男性店員たちは英語と日本語とスペイン語を自由に話していた。英語は母語として(また学校で習う学習言語として)、日本語は母親の言葉として、そしてスペイン語は子供時代に遊び友達と遊んだ言葉として catch-as-catch-can の耳覚え口移しに自然と学んだ外国語として、実用に耐えるほどだったのである。

最後に、奇妙に聞こえる「説」があることを少し紹介しよう。イエスギリシア母語説である。いや、もっと正確に言うと、イエスアラム語ギリシア語のバイリンガルであったという説である。多数派ではもちろんないが、そう主張する学者も稀ではない。エジプト時代にギリシア語で遊び、ガリラヤでその第二言語を保持していたなら、ギリシア語は多少わかるということではなく、説教も可能だということである。

聖書でギリシア人とある場合は、必ずしも人種のことではなく、異教徒の意味であることがあるが、ギリシア語を話す人という意味もある。実際、使徒行伝の時代(イエスの死後、紀元30−50年代)には、ギリシア語しか話せないユダヤ系クリスチャンの存在がうかがわれる。イエスの存命時代も、異邦人はもちろん、ギリシア語でなければ理解できないユダヤ人に向かって話すならギリシア語のほうが便利なのである。

さて、聖書に親しんでいる人は誰しも、イエスが異邦の女やローマの役人ピラトと二人だけで会話するシーンを思い出すだろう。ひょっとしたら、通訳はいたとしても、そんな瑣末なことは聖書で省略されていると考えることもできる。しかし、同時に、通訳なしでイエスギリシア語を話したと理解することに何の差し障りもない。

バイリンガルといっても様々である。非英語圏からアメリカに移民してきた人たちは、程度の差こそあれ、若いときであれば母語と英語のバイリンガルになる。しかし、「なる」といっても、自分から話したり書いたりするのは苦手なバイリンガルをreceptive(受容型)といい、話すのも書くのも痛痒を覚えないか実行できるのを productive(生産型)という。生産型の場合、第二言語で活動することに快感を覚える者さえいる。イエスがそうだったというのである。また、ギリシア語しか理解できない聴衆がいて、ギリシア語よりはアラム語を好む者がいたとしても、多くはイエスのように生産型ではないにしても受容型バイリンガルユダヤ人なので、ギリシア語が最適であったとする考えだ。

この説では、イエスの言葉としてときどきヘブル語(実は多くはアラム語)が新約聖書ギリシア語本文に挿入されるが、この挿入はイエスアラム語を話していたという証拠ではなく、むしろギリシア語を話していて、ところどころに(つまりアラム語が適切な場合に)挟んだ証拠であると主張する。確かに、なるほどとも思える。英語が母語ユダヤ系も日本系も、英語で話していて、ときどきイーディッシュ語や日本語の単語や言い回しを差し挟むことがあるが、彼らの多くはイーディッシュ語や日本語が達者ということではないのだ。

そうすると、イエス七十人訳の聖書にも親しんでいたことになるし、新約聖書ギリシア語で書かれたのは、国際語でイエスの言動を広めようとしたのではなく、元々イエスの言動が主にギリシア語であったため、ギリシア語でまとめやすかったのだということになる。また、ヤコブの手紙は新約聖書の中で最も古いものであるが(成立紀元40年ごろ)、ヤコブがイエスの兄弟のヤコブであるならば、イエスの死後(刑死紀元30年説として)10年で立派なギリシア語が書けるほど早く上達したというよりも、ヤコブもイエス同様のバイリンガルであった可能性と合致する。

日系二世なら、親とは日本語で話しても、兄弟同士では英語で話すという事例が圧倒的に多い。イエスヤコブギリシア語で話していたとしてもおかしくはないのである。更に、この説を取る場合、ペテロなどガリラヤの漁師たちやマグダラのマリアまでギリシア語使いとするケースもある。こりゃートンデモだと思うかもしれないが、余のように多言語環境にいると、もしかして、と考えてしまう。えーと、イエスラテン語も話せたというのは超トンデモだな。

さてさて、この調子なら、ペテロの言語能力やマルコの言語能力の検討は、ますます訳の分からないものになってくるわい。じゃー、今日はこんなところで。文献とか引用箇所とかめんどいので示さなかったが、具体的に「ここ」と問い合わせていただければ、お答えしますけん。お答えbot付けときます。