Comments by Dr Marks

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遠来の客人(拙宅宿泊予定)を迎える準備中の立ち読み休み―タダイの話その後(「不可能」の聖人ユダの祝日を迎える日に)

ユダヤ教徒キリスト教徒は、過ぎ越しの祭や復活祭の前に、すなわち春に大掃除をすることが多い。ところが我が家は遠来の客(二人)を迎えるので、この秋に大掃除をしている。大掃除といえば、よく何かを見つけるたびに一休みしてしまうものだ。

今日は床置き本をとりあえず新しい本棚2本に放り込んであるものを整理したり、粗大ごみを出したり、おおわらわの日曜の午後となってしまった。コンピュータに逃げることもなく、腰が痛くなるほど真面目に仕事(大掃除)をしたのだが、ちょっと立ち読みもしてしまった。

ふと、例のタダイのことを思い出してしまったからだ。しかも、あさって(日本では明日)10月28日は、タダイ(ギリシア語ではサダイオス)とも目される聖ユダ(ギリシア語ではイスカリオテのユダと同じくユダス)の祭日だ。この聖人に関して載っているのではないかと思う本を買っておきながら、どこかに(床の上に)埋もれていたので読んでいなかったのだ。まさに積ん読

その本とは、Richard Bauckham, Jesus and the Eyewitnesses: The Gospels as Eyewitness Testimony (Grand Rapids: Eerdmans, 2006)。予想通りだった。英語版WPでも紹介していた John P. Meier 兄貴の説である「タダイとユダは別人の可能性あり」を取り上げている。Meier 兄いの説は、必ず取り上げるべきなのだ。Bauckham 先生ような人が、彼の説を忘れるはずはない。

そういえば、蒼い龍先生が文献を示してくれてありがたいとコメントしてくださったが、同じことはWPなどの記述に関しても言える。タダイの項目の日本語版と英語版の決定的な違いは、英語版が新しい情報も入っているなどということよりも、いちいち文献を正確に引用していることだ。

勘違いしないでほしい。文献を引用するということは、文献がそのまま真偽の証拠になるということではない。文献に遡ることで、読者が自分で判断したり、その文献の更に先にも遡ることができるということだ。それゆえ、文献を一切引用しない日本語版は役に立たないということではないが、更に理解を深める助けにはならない。

話をタダイに戻そう。Meier や私のお気に入りの故 Raymond E. Brown などの基本的なタダイ(ユダ)に関する文献は英語版WPにすでにあるのでここでは省略する。しかし、イエズス会士のMeier兄ちゃんの説を簡単に説明すれば、聖書のあるところではタダイで、あるところではユダというのは一貫性に欠ける記述であるから、別人の可能性は排除できない、というものだ。(実際は、古写本によっては数種の呼び名があり、二つだけではないが、複雑になるのでここでは割愛する。WPで紹介しているMeier の本の200ページを読むだけでもいいが、131ページも参照のこと。)

ところが、Bauckham 先生は、他の聖書中の人物にもしばしば見受けられるように、ユダヤ名をギリシア語化した名前で呼んだ(ラテン語化もある)ケースであり、同一人物であるという伝承が間違いである可能性のほうが低い、とMeier 兄いの疑い(smacks of harmonization=無理矢理調和臭いぞ)に逆に疑問を投げかけている(上記、Bauckham の著作の99−100ページを参照)。

おまけ的になるが、実際のところ、イエスが生きているときの主要な弟子たち(十二使徒)でさえ、福音書を書く頃には記憶や伝承もあいまいになってしまったのかもしれない。タダイ=ユダ(Jude)は、「望みなき(hopeless)者の最後の望み」であることは大橋教授の言うとおりだが、また非常に困難な状態、「不可能な(impossible)状態にある者の守護聖人」とされることから、Meier 兄いはタダイなる人物を同定不可能として、新約学者をして「結局は、誰なのかわからんわ」と言わしめる人物だ、などとしゃれている。