Comments by Dr Marks

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強面(こわもて)は恥入るべし


自分の醜さに怖れ慄いて

猫猫先生(小谷野先生)が自分のことをブログで「自分の外見が怖くないということを確認した」と書いたことから、finalvent 氏や Antonian 氏が強面についてコメントしている。それにつられて思い出したことを書く。なお、猫猫先生は『駒場学派の歴史』を連載しているが、その中でも人々の容貌や風采について語っている。これも謦咳に接した人だから書けることであろう。面白く読んでいる。

さて、標題の言葉だが、なにも出典があるわけではない。私が思いつきで書いたものだ。いや、ひょっとしたら、亡き父が言っていたような気もしている。父は本来は(息子として信じるところは)諧謔を好み優しくて気前のいい男だった。にもかかわらず、外見は怖い。まず、体が大きい(今の私より背も高い)。大きいというのは、背が高いだけではなく、骨格がしっかりしていたのだ。目の前に立たれたら、すくむほどの偉丈夫だった。

昔の日本人の中で父を見つけるのは簡単だった。頭一つが群集の上に突き出ている。頬には深い切り傷がある。目が深く窪んでいて、鼻や口が大きい。ヤクザ者がマフィアの親分と勘違いするわけだ。しかし、口を開くと話し振りは優しいので人々は安心する。

私は父には似ていない。むしろ母方に似ている。これは外見の話だ。気性は誰に似たのかわからない。きっと何代か前の悪党の血筋が私に現れたのかもしれない。私は、一見、大人しそうに見えて、口を開くと気性の激しさが出るからだ。まるで父の反対だ。義兄の一人が東京の寿司屋で「べらんめい」で喧嘩をしたという恥ずかしい(恥ずかしければ書かなければいいのだが)話があるが、私も京都で出鱈目な旅行案内人に(意識的に)きつい調子で(声はむしろ低くして)難詰したとき、傍らの(私の)細君がびっくりしていた。また、留学生の Social Security Number の発行に難癖をつけられたときは、わざわざその者を連れて事務所に出向き、不当性を訴えるだけでなく窓口の者を怒鳴りつけたときは(わっ、猫猫先生みたい!)、所長が出て来て奥に通され、結局SSNを発行させてしまったから学生は感心し(呆れ)ていた。

以上のような、理由があることで怖れられるのはどうでもいい。むしろ finalvent さんが言うように、好都合かもしれない。ただ単に、容貌や風采が人を怖れさせるというときは反省したほうがいい。単に、親からもらった顔や体つきが人を怖れさせるということなどありえないと思っている。顔全体、体全体から、何か悪いもの(邪悪なオーラじゃ〜)がでているに違いないのだ。大昔に、非常に若かったが重役として仕事をしていたとき、用事のために単に呼びつけただけなのに、部下は震えていた。いや、目を下に向けたら、膝をがくがくさせて怯えているのだ。確かに私は、重要な案件のために、その日朝から何人かの者を怒鳴りつけていたが、その者は関係がない。関係のない者まで怯えさせていた。

その者も、よりによって険悪な時に呼びつけられたのでショックだったのであろうが、私も非常にショックだった。ああ、私はそのように(怯えさせる者として)受け取られているのかと。鏡に映った醜い自分の姿が見えたように思った。以後、気をつけるように深く反省したのだが、(神経質で小心者の裏返しである強面が)顔に出ていることもしばしばに違いない。

数年前に東京で仕事をしたとき、仕事を手伝ってくれた人の妻が偶然にもその頃私のオフィスにいた女性だったことを知った。そして、その人に聞かなくてもいいことを聞いてしまった。俗人の煩悩だな。「あなたの奥さんは、当時の私についてどう言っていますか」と尋ねたら、「ええ、非常に厳しいお方だった、と言ってます」と返ってきた。ああ、やはり、とショックではあったが、私の落胆が顔に出たからか、それを察して「しかし、今でも外資系出版社でやっていけるのも Waterman さんのお陰でしょう」とも付け足してくれた。

どう考えたって、Dr. Marks が優しくて親切な人だったなどと言うはずがない。徳のない顔は徳のない顔のまま今年も過ぎて行く。猫猫先生は「自分の外見が怖くないということを確認した」と書くのではなく、「自分の外見が怖くないということを確認して、安心した」と書くべきだったと思う。それは徳であり得な顔なのだから。「強面は恥入るべし」というのは、やはり私の言葉ではなく、父の言葉だったのであろうか。もう、わからなくなった。