Comments by Dr Marks

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続・21世紀神学の覚書

日常性は、死の「確実性」を、このような曖昧な仕方で受け入れるに留まっている―そのわけは、曖昧にされた死の「確実性」が、死ぬことをますます覆い隠して、徐々に弱らせ、かつ死に向かって投げ出されるのを和らげるためなのである。Die Alltäglichkeit bleibt bei diesem zweideutigen Zugeben der >Gewißheit< des Todes stehen - um die, das Sterben noch mehr verdeckend, abzuschwächen und sich die Geworfenheit in den Tod zu erleichten.
存在と時間』52節より、私訳にして試訳

学会で買った本は途中で放り出して、ハイデッガーそのものを読むことにした。ドイツ語は苦手なのでいい英訳があるから借りようと思ったら、図書館から出払っていた。誰かが授業で使っていると、複数部数あっても学生が全部持ち出していることになる。仕方なくドイツ語で読むことにした。日本語訳で読むよりはましだ。かつて訳者は誰だったか忘れたが、日本語訳を見て目が回ったことがある。日本語は私の母語なのに、訳されている日本語は日本語ではなかった。まるで意味が取れない。

例えば、以上の引用にあるGeworfenheitだが、「被投性(投企)」などと言われるとそのつど日本語の術語を覚えなければならない。しかし、せっかく覚えても、上記のような文脈でこの奇妙な日本語を直に出されるとわけがわからなくなってしまうのだ。いくらドイツ語は苦手といっても、そうなると原文を見たほうが楽である。

「このような」というのは、この引用の前段に書いてあることだが、人はいつかは死ぬが当分の間は死なないという戯れ話(Gerede、噂話)の中で、されど確実に死ぬことを疑え得ない現存在(Dasein)という曖昧さのことである。ハイデッガーのこの本は、今日読んでいた限りでは、やはり若者の著作であるとの印象は拭い得ない。死と日常性とは、そんなものであろうか。第一部で終わったこの本が、第二部を書きつげなかった理由がわかったような気がした。もちろん、彼は、この論考を基にして種々の著作をものにするのであるから失敗作ではなかろう。それでも、私はこの年になって『存在と時間』を再訪してみると、若者の著作であるという気がしてしまうのである。そういえば、フッサールに捧げられたんだな、この本は。フッサールは、時の権力者だよ。

思い出したことがある。これから史的イエスで取り上げるジェームズ・ロビンソン爺さんがドイツスイス留学中に買った Sein und Zeit を古本屋に売り払ったのを見つけたことがある。買わなかった。パネンバーグの本も出していたのでそれは買った。なかなか手に入らない初期の著作だったからだ。ロビンソン爺さんはドイツ語の本を随分と読んでいた。ハイデッガーにも書き込みがあったよ。買っておけばよかったかな。爺さんは今年の学会には来なかった。元気だろうか。今、クレアモントの引退者ホームに住んでいて、宣教師を引退した婆さん達のアイドルだ。やさしそうな爺さんになった。