Comments by Dr Marks

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まだ年末、しかし、年始が始まったとしても昨日も今日も変わらない+ある自殺者とキリスト教の始まり

細君は今日も仕事だし、今日、仕事の人は日系企業を別にすればアメリカでは普通にいる。「美徳の不幸」というキザな、いや、イキなタイトルのブログを持つ若き宗教学者川瀬貴也氏は、妻が働きに出て自分が家にいるときは「ヒモ」の気分がすると書いていたことがあるが、今日は(いや今日もかな)私はヒモである。ヒモといってもヒマではない。2008年の終わりの日だから会計上の最後の日として今日の日付で処理しておかなければならないことがあるし、細君が帰宅した頃に友人も来て食事をするので夕食の調理もするから忙しいのだ。

クリスマス・イヴと違ってニューイヤー・イヴには深夜ミサもない。(夕刻の礼拝はある。)カトリック教会をはじめ新年ミサが元旦にあるだろうが、プロテスタントの諸教会はそれすらないことが多い。ただ、私たちは市内に日系の親類があるので午後はそこの日本流新年会に顔を出す。そこの主婦が一応お節らしいものを出してくれるし日本酒が回される。そして、細君は二日からまた仕事だ。俺? 二日もヒモ、いやヒマ、どっちだっけ。

Final Event、いや finalvent さんが「極東ブログ」のほうで友人の自殺に触れていた。私は直接はそのことに触れない。触れられないし、触れても仕方がない。ただ、次のことだけは言っておく。我々は自殺した人のために、また周囲の人のために祈ることは必要だ。生きている関係者には、必要があったら具体的な手を差し伸べることも必要だろう。自殺でなくても、亡くなった方の周囲には細心の注意を払わなければならない。細君はそのことで悲痛な経験がある。彼女の親友の一人が、ガンで早世した夫の後追い自殺をしてしまったのだ。とても強いと思われた女性なのに、細君がL.A.からサンタバーバラ(彼女の夫はUCSBの教授だった)まで車を飛ばしたがその間の出来事だった。

一般化はできないが、自殺する人は逆説のようだが「そのとき死ぬことは考えていない」。彼女の自殺は夫の葬儀準備の真っ只中だった。幼い子供たちの世話のため細君はサンタバーバラに着いたのだが、彼女はどこにもいない。太平洋の海の中を、深みに深みに歩んでいって自殺したようで、後日、死体が上がった。自殺する人は肉体や精神の異常な負荷の(heavy laden)状態にあることが多い。だから、私が神学校で葬儀葬式の実務教育を受けた際に、講師として来た葬儀屋さんが、「皆さんは、葬儀場あるいは埋葬地から最後に立ち去る人になって、それまで参列者一人一人に目を注いでいてください」と注意を受けたものだ。(謝礼をもらってさっさと帰ってはいかん、ということだ。)

ところで、亡くなった方すべてに対してだが、とくに自殺した人のことは、(祈ることと矛盾するようではあるが)なるべくいつまでも考え続けないほうがいい。また、そのような暇や機会をもうけないことだ。記念日も適当な年限で止めてしまって構わない。そのように生きるべきであろう。

そのあと、雑駁な歴史の話をしたあと、そういえばキリスト教発生の歴史について最近はどう考えていますかと聞くので、ブログなどにも書いたことがない私なりの考えを話すと、彼は驚き、そしてそれに関心を持った。私としてみると、キリスト教発生についての奇妙な仮説など、よほどの酔狂でなければ関心などももたないだろうと思っていたのに、しかも儀礼的に関心を向けるというふうでもなかったので逆にこちらが不思議な感じがした。そして、ここまで言うと気違いじみていけないかというところまで、さらに話した。彼はその話をまとめないのですかと私に聞いたが、私は公開する気はないですよ、語ったところで狂人の戯言みたいなものですから。私一人、死ぬまで孤独に考えていけば十分です、と答えた。

上の引用は何かというと、その Final Event さんの記事に書かれていたこと。文中の「私」は finalvent さんで、「彼」は自殺された方だ。そこにキリスト教発生の歴史に関する「私」の奇妙な仮説が「彼」の関心を引き起こしたとある。内容は今のところ「私」しか知らない。「彼」は死んでしまったからだ。他は誰も知らない(他に誰かに話していれば別だが)。しかし、もしもの話だが、そこに Dr. Marks が居合わせて、奇妙な仮説が奇妙でもない、あるいは少なくとも新説でもなんでもない、というようなことを言ったなら…、いや、止そう、止しておこう。詮無いことである。