Comments by Dr Marks

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山折哲雄の『仏教とは何か』(中公新書1130)1993年刊


めんどくさいけど、フランチェスカの鐘の音〜♪

ひょんなことで入手した上記の本を読んでみた。中公新書というのは多少学問的なものと思っていたが、違った。思い入れたっぷりの随筆ないしは自己遍歴で、それなりに面白いことは面白いが、勝手な推測を用いて強引に勝手な結論に導いており、読んでいて頭が変になり落ち着かない。

どうも変な言い回しがあって、近頃は(今から15年前ではあるが)編集が遠慮していて、著者の文章的趣向や意向が尊重されるのだなと思っていたら、5つの事柄がなければならないのに、数えたら4つという箇所があったりしたので、編集の手を遠慮しているというよりは編集の目がからっきし入ってイネーノダ、欠陥ダー、と思った次第。←この文章も凄いけど。

アメリカ人は墓をつくることには熱心であるが、しかしそれはけっして遺骨を納める場所としてではない」(P173)というが、その後の記述を見ても意味不明。確かに、基本的には遺骨ではなく死体そのものを土葬するのであるが、土葬された死体は、間もなく骨だけになるのである(あるいはミイラ化)。更に、墓というのは「それはむしろ死者の生前の姿、すなわち肉体を記念し追慕するための場所」だというが、墓はみんなそうだろう。そして、遺骨が納まっている場所に変わりはない。

彼は、キリスト教の埋葬について語るなら「土葬」や「復活」について言及すべきだった。それはともかく、日本で一般的な火葬の骨は、全身が拾われて骨壷に入っているわけではない。しかし、土葬による骨は全身である。なお、アメリカの火葬では、火力が強いせいで、骨は「箸」で拾える形での骨ではなく、さらさらの骨の砂ないしは灰になってしまうから「スプーン」でしか掬えない。

山折氏に関してウィキペディアを見てみたら、今年4月の讀賣新聞の記事の中でキリスト教の「一般的教義を理解していないことを露呈」したなどと書かれていた。可愛そうに。しかし、この本でも山折氏は『夕焼小焼』の童謡のような感情はキリスト教世界においては「かならずしも理解しやすいものではないにちがいない」などと回りくどく書いたりする(P195)。いくら回りくどく書いて言質を取られまいとしたとて、「キリスト教世界にはない感情」と断定しているのは明白だし、回りくどさで、それをむしろ強調しているにすぎない。

そんなことはないよ、山折さん。「無常観」だとか、「自然との共生感覚」を日本の仏教独特のものと思っているのでしょうが、夕暮れ裏庭に座して、梢のカラスと夕日に映えるハリウッドの山々を見ていると1丁先のカトリック教会の夕べの鐘がギンゴーンガンゴーンと物悲しく鳴るのですよ。それまで騒いでいた餓鬼どもも家路につきますが、家ではお母ちゃんが夕食の支度を整えた頃でしょうね。こう考えると、ウィキペディア記者は、かならずしも正しくないことを書いたのではないに違いない、などと思ってしまう。