Comments by Dr Marks

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ショローム・アレイヘムの小説『永遠の命』(第五回)

すると突然、御者がほがらかな声で馬にドードーと言っているのが聞こえた。暗闇の中で、神に感謝し、胸に安堵の十字*1を切っていた。私は起き上がって辺りを見回した。遠くに灯(あか)りが見える。灯りはちらちらと輝いたかと思うと消えうせ、またちらちらと輝きだす。家だと私は思い、心から神に感謝した。御者に向き直って「道が見つかったようだね。町に近づいたのかい」と尋(たず)ねてみた。

「ああ、はあ」と御者はいつもの短いやり方で返事をしたので、もう怒りは失せていた。だから、私は彼の広い肩に手を回してキスすることもできた。陽気な「ああ、はあ」という短い返事を聞くことはとても嬉しいことだった。そのときほど、「ああ、はあ」が、どんな気の利いたおしゃべりよりも素晴らしいと思ったことはなかった。
「あんたの名前は何だっけ」と聞いて、今さらながら名前すら知らなかったことに我ながら驚いた。
「ミキタ」と一言で、例のごとく簡潔に答えてきた。
「ミキタ」と私も繰り返した。すると、そのミキタという名前が不思議な魅力を帯びてきた。
「ああ、はあ」と彼も返事する。
彼がもっと何か話してくれることを期待した。何でもいいから話すのを聞きたかった。ほんの二言三言でもいい。ミキタは俄然(がぜん)私にとって愛(いと)しいものになり、彼の馬さえもいとおしくなった! だから、馬を話題に話を始めてみた。何と素晴らしい馬を持ってるもんだ、とかね。
「まことに立派な馬だ!」
これにもミキタは「ああ、はあ」と答える。
「ミキタ、橇だってすごいな!」
これにもまた、「ああ、はあ」と返事する。
それ以上には一言も出てこない。
「ミキタ、相棒よ、しゃべるのは嫌いかい」とも聞いてみた。
「ああ、はあ」とそれにも答えるので、私は大笑い、噴き出してしまった。宝物でも掘り当てたように、いや何でもいい、素晴らしい大発見をしたように、私は幸福だった。簡潔に言って、幸運だった。いや、幸運どころじゃない。挙句の果てに、何がしたくなったと思う。声を張り上げて歌いたくなったんだよ。本当だ。いつだって、嬉しいときはそうしたんだ。気分がよくなれば歌が飛び出す。女房は、感謝なことに、私のこんな性格を知っていて、こんなふうに言ってくれる。
「おやおや、ノア、どうしたんだえ。そんなに喜ぶほどだから、さぞかし今日はずいぶんと稼いだんだろうね。」
女にとって、うん、女の頭の女房にとって、男が嬉しいのは、何がしか稼いだときだけなんだろう。女というものは男よりもどうしてそんなに欲深なのかわからない。その金をせしめているのは、私たち男か、あいつら女たちか、いったいどっちなんだ。しかし、そこで、はたと気づいた。埋葬のための町ボイベリクへの旅で、有り金すべて使い果たすのではないかという懼(おそ)れにだ。

さて、何とか神様のご加護でその町に辿り着いた。まだ極めて早い朝だったので、夜明けまでに相当な時間があった。町はまだ静かに眠っていた。一筋の光さえも、どこにも見えなかった。かろうじて、大きな門と、その門の上にある箒(ほうき)の看板が下宿屋か宿の印になっている建物を判別できた。橇を止め、私たち、つまりミキタと私は道に降り立ち、こぶしで一緒に門を叩いてみた。何度も何度も叩いているうちに、ようやく窓に灯りがともった。そして誰かが足を引きずりながら門まで来る音が聞こえ、「そこにいるのは誰かね」と呼ばわった。
「開けてください、おじさん。そうすれば永遠の命が手に入りますよ」と私は叫んだ。
「永遠の命だって、いったいあんたは誰だ」と門の中から声がして、錠前が開きかけた。
「戸を開けてください。私たちはご遺体を運んできたんです」と告げた。
「何だって。」
「ご遺体です。」
「ご遺体とは、どういうことかね。」
「ご遺体は、死んだ人のことですが。この近在から運んできた女性の死体です。」

門の内部には、沈黙がしばし。開きかけた錠前が再び元に戻り、引きずった足音が遠のいていくのが聞こえるばかりだった。窓の灯りも消え、私たちは雪の中に置き去りにされた。非常に腹が立ったので御者にも加勢するように言って、一緒になって今度は窓をげんこつで続けざまに叩いた。死に物狂いで、かなり叩いたものだから、灯りがもう一度ついて、再び、
「何の用なんだ。厄介かけるのは止してくれないか」という声がした。
「後生だから、情けをかけてもらえまいか。さっき言ったように、ご遺体を抱えているんだ」と追いはぎに命乞いでもするかのように嘆願した。
「どんなご遺体なんだ。」
「宿屋の女将さんのです。」
「どこの宿屋を言ってるのかね。」
「主人の名前は忘れましたが、この女将さんの名前は、ハナ・ラファエルの娘、ハヴァ・ミケル、おっと間違えた、ハヴァ・ミケルの娘、ハナ・ラファエル、ハナ、ハヴァ、ハナ・・・ええと・・・。」
「失せやがれ、このシュリマズル*2、さもなきゃ脳天からバケツに一杯水をお見舞いするぞ!」

そうして、その宿の主は足を再び引きずって遠のき、灯りもまた消えてしまった。もはやどうすることもできない。それから一時間としばらく経った頃、日が昇りかけた頃に、ガチャンと音がして門が開き、白髪がまじった黒い頭が飛び出してきて、言った。
「窓をやたらに叩いていたのはあんたらかね。」
「もちろんだ! ほかに誰だと思うのかね。」
「だから、用事は何なんだ。」
「遺体を運んできたと言ったろ。」
「遺体だって、それなら埋葬組合のシャメス*3のとこへ持ってけばいいじゃないか。」
「シャメスはどこにいるんだ。そいつの名前も教えてくれ。」
「イェヒエルが名前だが、沐浴場のすぐ近くの丘のふもとに住んでいる。」
「で、あんたたちの沐浴場はどこなんだ。」
「沐浴場がどこかも知らないのかね。よそ者だな! お若いの、どこから来たんだ。」
「どこからだって。ラデミシリだよ。そこで生まれた。だが、今のところはズヴォヒルに住んでいて、そこから来たところだ。それで、この近在の村から死骸を運んできたというわけだ。その村の宿屋の主の細君だ。肺病で死んだ。」
「そりゃ気の毒に。しかし、それがどうしてお前さんに関係があるんだ。」
「何んにも。私が通りかかったので、その宿の主人に頼まれただけさ。それだけのことだ。彼は、その田舎で、小さな子供たちを抱えて一人だったからね。そこには埋葬するところもないことと、彼が永遠の命が欲しくないかと言うので、考えてみたが、断る道理もない。」

「どうもわけがわからんね。まず最初に埋葬組合の役員さんたちのところに行ったほうがよさそうだな」と勧められた。
「それなら、その役員さんたちはどなたで、どこにお住まいで。」
「ここの埋葬組合の役員のことも知らんようだね。えーと、まずレブ*4・シェプセルというのがいる。市場の向こうに住んでいる。次に、レブ・エリエゼル=モイシェだ。市場のど真ん中に住んでるさ。それから、レブ・ヨッシも役員だな。古いほうのシナゴーグの近くに住んでいる。しかし、まずレブ・シェプセルに会うのがいいだろう。彼は、この町でいろいろと手がけているからな。頑固な男だ。一つ忠告しておく、容易に説得できるような人じゃないよ。」
「ありがとうございます。あなたご自身は、今あなたが言った人よりも素晴らしい人だと、人から誉められながら生きていかれますように。それで、この人たちにはいつ会えるでしょうか。」
「いつかと聞くのかい。朝の礼拝の後さ。」
「なるほど、ありがとうございます。では、それまで私はどうすればいいでしょうか。少なくとも中に入れてはくれませんか、そうすれば体が温まる。この町はなんですか、ソドム*5のようなところではないんでしょう。」

こんなことを言ったためか、宿の主は再び戸口の錠前を閉めてしまった。墓場のような静けさだけが残った。いったい、今はどうすればいいんだ。道の真ん中に橇と一緒にいるだけだった。ミキタはぷんぷん怒って、ぶつぶつつぶやき、首の後ろを掻きむしりながら、唾を吐き、鬼気迫る呪いの言葉をわめきだした。
「あんな邪悪な宿屋の主人は、未来永劫にわたって地獄の業火に焼かれますように、宿の主という主はことごとく、そうあれかし!」
彼は罰当たりのことを言っている自分のことはどうでもいいらしい。悪魔の霊の命ずるがままに呪い続けた。
「しかし、この馬はどうか。宿屋の主人たちがこの痩せ馬にした仕打ちはどうか。虐待し、こんなふうにひもじい思いをさせて凍えさせているではないか。罪もない動物が犠牲になった。こんなことがかつてあっただろうか。」

私はこの御者の前で恥じ入った。異教徒の彼は私たちをどう思っているのだろうか。ユダヤ人が別のユダヤ人にこんな仕打ちをしているんだ。異教徒の彼らは、ただの無学の百姓だが、私たちユダヤ人は、賢く情け深い人間だとみられていたではないか。私たちユダヤ人の常々の悪い癖かもしれないが、こうして私は、たった一人の男の無作法ゆえに全ユダヤ民族を批難した。

(続く)

*1:御者はユダヤ人ではなく、キリスト教徒のウクライナ人であることがわかる。

*2:「間抜けで幸運に見はなされた者」という意味のイーディッシュの罵り言葉。役立たずの能無しのこと。

*3:ユダヤ教の会堂守、寺男

*4:英語のミスターにあたるイーディッシュの男子への敬称

*5:ソドムはゴモラとともに罪が非常に重くて神が滅ぼそうとした町の名であることが、創世記18章にある。また、とくに旅人に扮した天使たちにソドムが非道な仕打ちをしようとしたことは、同じく19章にある。