Comments by Dr Marks

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久々に丸一日のお仕事として編集してみて、しみじみと聖書学の「ファティーグ理論」を体験した

今日はどうしても他のことを後回しにしても終えなければならず約6万語(6万字じゃないからね)の文書のチェックをした。人文科学系の博士論文の半分くらいだろうか。データをコンピュータに落とし、間違いを探していったのだが、私に来る前段階での編集が弱く、不統一があったり、許容しがたい表現があって、チェックするだけでなく編集に手を入れる破目になってしまった。

最初のうちは細かなところにも手を入れるのだが、今日の5時前に終えたかったので、段々とどうでもいいところはどうでもいいやとなってしまう。誤解のないように言えば、今回の文書はすぐさま印刷・出版に回るようなものではない。従って、どうでもいいやが許される。しかし、出版となると、きちんとエディターズ・ノートを脇において、メモを取りながら統一していくものだ。だから、「どうでもいいや」というような編集者は首だ。

編集は久々の仕事だったが、考えてみれば長い間聖書学の話題ともご無沙汰だった。今日は罪滅ぼしに(罪ってやだねー、てか罪々言うクリスチャンが嫌)聖書学の「ファティーグ理論」を紹介しよう。ファティーグとは "fatigue"、「疲労」のことでありんす。どういうことかというと、写本作業に関わる理論(というか経験的に知られる事実)で、写しているうちに疲れてくるという話である。

そんなん、当たり前でんがな、というあなた、早合点しないように。旧約聖書写本の作業の場合、初めから一行に入る文字数などを決めておき、単純に書き写す場合は、斎戒沐浴して気を引き締めて行う。決して、眠い状態だったり、嫌々気分でしてはならない。従って、結構精度は高いし、時代を経ても内容が変わらない。これをテキスト(本文)の強固な固執性(tenacity)といい(Kurt Aland らの言葉)、素人が考えるようにコピーのコピーのコピーの・・・は信用できん、というようなことはないのである。

では、何の場合かというと、正典として確立されない頃の福音書の成立でとくに問題となるケースである。例えば、多数意見に従って、マルコ伝がマタイ伝の先に書かれたとすれば、このファティーグの例はいくつか見つかる。イエスが生まれた頃のヘロデ大王は、正式にローマから「王」(バシレイウス)の称号をもらっていた。しかし、彼の息子の一人ヘロデ・アンティパスは「領主」(テトラアルケース、四分封領主)であって「王」ではない。

ところでマルコ伝では、知ってか知らずか、一貫してヘロデ・アンティパスを正しくない称号「王」としている。マタイ伝では、そのことを知っているので「王」を「領主」と正しく訂正して書き出すのだが、途中から疲れてきて(あるいはどうでもよくなって!)元原稿のまま(すなわちマタイ伝のまま)にしてしまうというのだ。この軌跡をたどると、どちらがどちらかを写したか(すなわちどちらが古いか)がわかるという判断理論となっている。この場合は、当然(これだけではちょっと問題ではあるが)マルコ伝が古いとなる。