Comments by Dr Marks

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約束があるから信仰があるというのではないのだろうな。ましてや、人間ごときが誓ってはならない。

レヴィナスは、アウシュヴィッツに関連して、「約束があるから信仰があるのではないのだから、信仰など宣べ伝えることは無理だ」という趣旨のことを言っていると、フランソワ・ポワリエが書いている。余の個人的体験からも、それは無理だと思う。不可能というのではないが、信仰を伝えることなど無理だ。そもそも「不可能」と不遜に言うことはできない。ただ、余にとっては無理だと言っておこう。

聖書の中で約束あるいは誓いというテーマないし語彙が登場するのは、創世記の半ば近くなってからだ。そして、どちらも誓いや約束は神のなさることとして現れる。決して人間のするものではなかった。アブラハムに天使によって伝えられた誓いは、神ご自身が「わたしは自らにかけて誓う」(創世記22:16)というものだ。また、ヤコブに語られた「あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:15)というのも、アブラハムとイサクの神である主の言葉である。

この神を信じればアブラハムヤコブへの約束が余にも与えられると単純に考えてはいけないだろう。ホロコーストにあった者たちがこの神を信じていればアウシュヴィッツがなかったとは言えないだろう。同じように、誰も見たことのない天国を信じろと他人に勧めることはできない。しかし、レヴィナスは「自らに宣べ伝えることはできる」とも書いている。確かに、その通りである。自分自身に宣べ伝えることこそ信仰であろう。

聖書は、人間が(神の真似ををして)誓うことに対しては、しばしば警告を発している。誓ってはならないということは、「十戒」の中に直接あるのではないが、主の名をみだりに唱えてはならないことと関連すれば「十戒」の一部と考えることもできる(出エジプト記20:7、申命記5:11)。また、先ごろ「エフタの悲劇の娘」と題したブログで紹介したように、軽はずみな誓いなどもってのほかである。悪いことであれ良いことであれ軽はずみな誓いはよくない(レビ記5:4)。もちろん神の名において偽証するなどは言語道断だ(偽証を戒める「十戒」の一、およびレビ記19:12)。

もちろん、聖書には「主の御名によってのみ誓え」(申命記6:13)ともあるが、それは他の神々によるのではなく、という比較においてであった。そして、伝道の書(コヘレト)5章4節が「誓ったら誓いを果たせ」というのは、必ずしも誓いを勧めているというのではない。むしろ、その後の「果たせないなら誓うな」に力点がある。だから、イエスは、それらの聖書の言葉を踏まえた上で、「一切誓いを立ててはならない」(マタイ伝5:33−37)と戒めたのだ。

人は、自分が見もしない天国の約束などを他人にしてはならない。もっぱら自分自身に語り続けるべきだ。語り続けるべきで、自分自身に語ることを止めてはならない。このように言うと、他人は救わぬ小乗キリスト教、あるいは小乗ユダヤ教かと批判したくなるだろう。そう、自分を救わぬ者が他人を救うことなどできない。できるのは自分に宣べ伝えている姿を他人に曝け出すことくらいだろう。

アカイワという名前から赤い牧師、すなわち共産主義かぶれの牧師と言われた赤岩栄は、無心にあるいは無駄に石を投げ続ける背中を他人に見せるしかないと書いていたが、余はこんな馬鹿馬鹿しいブログを書き続けているくらいしか何もできない。無力な余としては、このどうでもいい文章の中に、せめて、どういうことが聖書のどこに書かれているかでも紹介するしかないだろう。もう一度言うが、余は見たこともない天国など誰にも約束できないからである。