カンタベリー大司教ローワン・ウィリアムズのドストエフスキー論
Dostoevsky: Language, Faith, and Fiction (Making of the Christian Imagination)
- 作者: Rowan Williams
- 出版社/メーカー: Baylor Univ Pr
- 発売日: 2008/07/14
- メディア: ハードカバー
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Rowan Williams はカンタベリー大司教ではあるが、ケンブリッジとオックスフォードで教えた神学者だ。聖書学者というよりは神学者だな。彼の著作は多いが、On Christian Theology (2000)などは手頃だろう。彼は復活論の中で空の墓の意義を積極的に認めている。というよりは、むしろ復活出現のキリストよりも、空の墓のほうに合理的な意義を認めている。
戦争を知らない子供たち世代(1950年生まれ)特有の未来志向、変革思考、楽天性があるが、基本的には保守のように思う。彼に対する近年の政治的な動きなど、日本語のウィキペディアもあるが(http://bit.ly/aX0F9j)、英語版のほうがいいだろう。
先日、書架の中に封を切っていない(プラスチックにパックされたままの)本書を見つけた。積読以下というか、買ったことも忘れて放り投げてあったのだ。多分、学会に行くと安売りをしているものだから(ご同輩、どちら様もご経験のとおり)つい余計なものまで買ってしまう。興味があるなら帰りの飛行機の中ででも読むわけだが、そうでもなければゴミの山に埋まってしまう。
そう。余はドストエフスキーなどに興味はない。ウィリアムズが著者なので買っただけ。さっと見て、まあまあ戦争を知らない子供たち、とくに「おませ」子供たちの関心がどこにあったかわかる。普通は、文学者の側からのドストエフスキー論が多いが、これは一応は神学が専門の人の見方だから、その意味では役に立つかもしれない。だから紹介している。
1.神学的規範、2.キリスト教の真理観の統一性、3.世界の審判、4.聖書の教え、以上の4章立てだ。見れば神学的関心に重点があることはわかるが、文学系・社会学系・哲学系の評論にも広く目を通した上での議論である。余などが興味を持つのは第2章であるが、ドストエフスキーの、キリストが真理の埒外にいたとしても私はキリストの側にいたい、というテーマから始まる。
ウィリアムズは、もちろん、「キリストが真理の埒外にいた」こと自体疑問であり、キリストの真理と人間の学問上の真理とが矛盾するとは考えていないようだ。戦争を知らない子供たちは、世俗の真理が真理であるような心理状態に置かれたのではあるが、必ずしもそうではないようだ。また、博引傍証で猫猫先生みたいだな。ドストエフスキーが好きなら一度読んでみればいい(と思う)。