理性は主観的であることについて:単なるメモだが、誤解があるようなので
本来これが専門だったのだが、今は興味が薄れたのであまり語ることもないが、いささか今さらながらだが、一般には誤解されているのかなと、ふと思ったもので。理性と信仰はもちろん違うのだが、対立するものではないのだよ。
信仰に対立する概念ならば、それは理性ではなく(自然)科学的な知識だろう。これはどちらかといえば近代的生活世界から来るものであるが、古代の人間だって日常の生活世界における知識は信仰と対立するものであった。使徒行伝26章のフェストスやアグリッパのパウロに対する批判あるいは揶揄でもそのことは明らかだ。
そういった客観的な(従って他人と容易に共有できる)知識とは別に、理性は極めて主観的なものであり、具体的なものだ。余は、日本語が母語であるのに、哲学的なことは初めから西欧語で学び考えてきたので、「日本語の理性」が極めて信仰の主観性に対立する「客観的な理性」だと誤解されていることに気づかなかった。気づかされて唖然としたのだ。議論の初めから誤解があると。
Vernunft でも reason でも、理性と訳されてきた西欧語は、いずれも主観的な推論と判断である。もちろんヘーゲルの絶対理性のような概念は世界理性であり、主観的なものではないが、絶対理性こそ想像の産物であり、むしろ信仰そのものであろう。そのヘーゲルでさえも、「基本的な理性」の理解は、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(Grundlinien der Philosophie des Rechts)と述べている。
もちろん、学者が定義して用いる「理性」はそれぞれ個々に別の意味であると同時に、我々が日常の用語として使う語感とは異なる。しかし、その語感と著しく乖離することもまた稀である。例えば、余が神学理論よりも聖書学に転じたことには reason がある。この reason を日本語的には「理由」と訳したくなるだろうが、余の(そしてまた西欧語で暮らす人々の)頭の中では、まさしく「理性」なのだ。
そして、その reason は、客観的に誰にでも適用できるものではなく、個人的な reason である。理性の働きの一つは、他人から、外界から、世界から、己を対比して認識する力かもしれない。そのことを踏まえた上で、信仰と理性を論じるならば、見えてくる様相はかなり違ってくるであろう。